宙葬
ある日の夕方。私は教室で日誌を書いていた。これは私の日課、私が学校へ来ている唯一の意味。クラスの様子を観察し、それを事細かに先生に報告する、それがクラス委員の仕事。皆が嫌がるような仕事を、私は好きだった。世間で言う優等生、真面目な子、そう言われ続けて来た。実際その方が楽だった。嫌な事には首を突っ込まなくていい。
「まだ残ってたんだ。」
私が日誌を書き終わり、職員室にそれを置き、教室に帰って来て帰り支度をしていると彼は私の前に現れた。
「ええ、日誌を書いていたから。」
「なんか、毎日書かせてごめんね。」
「いいのよ、好きでやってるから。」
彼は私と同じ、クラス委員だった。スポーツ万能で、成績優秀、優しくて容姿も良く、クラスの人気者‥‥、私の一番嫌いなタイプだった。
「君さ、いつも一人でいるよね?友達いないの。」
「友達はいるわ。けど一人でいる方が好きなの。」
友達、触りだけ。今だけのものだと思っている。頼られるのは嬉しいけど、深くは関わりたくない。あくまでも、私は一人。傍観者でいたい。
「ねぇ、知ってる?」
「何を。」
「俺は、君の世界を作ってあげられるんだよね。」
彼が何を言い出すのか本当にわからなかった。それは、私が幼かったのか、それとも彼が私にわからないようにそのような言葉を掛けたのか。未だに、私にはわからない。
「世界を?」
何を夢のようなことを、と私は嘲笑った。‥‥幼いにせよ何にせよ、サンタクロースすら信じなくなった中学生。神なんて信じてないし、寧ろ目の前にいる男が、神になれるなんて考えてすらいない。
「馬鹿じゃないの。」
私は彼の微笑みを無視して教室を出ようとした。
「ねぇ。」
腕を捕まれて、私は彼の瞳を見た。
「そのつまらない世界を、俺が変えてあげるよ。」
その彼の瞳に、私は。自分自身を失ってしまった。私は彼に引かれるまま着いていった。
着いたのは町外れの崖、崖の下には海があり、崖の上には立派で大きな一本の樹が立っていた。
「捕まって。」
彼の手は私の手を引き、私は樹の上に上がった。瞬間、声をあげた。
「‥‥‥綺麗。」
夕陽は海を包み込み、世界を照らしていた。素晴らしい、こんな風に思ったのは始めてだ、私は感動を覚えた。
「ねぇ、よかったら。」
彼は私の手を取り手の甲にキスを落とした。
「もう一つ、世界を変えてみないかい?」
彼は私の耳元で好きと、囁いた。
初めての恋から10年が経つ。彼のことは嫌いになる事は無かったし、別れる事も勿論無かった。彼は私を愛してくれた、私も彼を愛していた。彼は私の世界を一変させてくれた。彼のくれた世界は色で満ちて綺麗だった。
そして、私は今、何故か走っていた。走って、走って、辿り着いたのは病院で、私は闇雲に病室に向かった。‥‥只最後に一言言いたかったのだ。願いは只それだけだった。
「‥‥‥お気の毒ですが。」
病室に入った途端、そこにいた医師は私に告げた。
そこで眠っていたのは、否、息がない、そう、彼だった。10年前と変わらない容姿、ほっそりと痩せ細った身体、白い肌。それは、彼が運命と闘った証拠だった。
私は、その場で、声を挙げて泣いた。みっともないとは思わなかった。泣かなければならないと思った。泣きながら、‥‥彼が私の涙が嫌いだったのを思い出した。
「ありがとう、言えなかったね。」
夕陽では無かった。月の光が、海を静かに照らす。
「今、貴方の所に行くからね。」
貴方がいない世界なんて、生きている意味がない。だって貴方が私の世界を変えるためにいたのなら、私は貴方の運命を変えるためにいた。けど、私は貴方の運命は変えられなかった。変えられなかった。
生きている意味なんて無いじゃないの。
私は飛んだ。崖の上から、宙を舞い、海へと。‥‥‥貴方の腕の中へと。
(私が死んでも世界は変わらないけどね)