06 崩壊
心理学用語のひとつに「移行対象」というものがある。どこかの偉い人が言いはじめた概念らしいが、詳しいことは知らない。
簡潔にいうと、三歳くらいの小さな子どもが『母親代わり』として肌身離さず持ち歩くもの、らしい。ぬいぐるみや毛布なんかが選ばれやすく、成長とともに自然と手放すそうだ。
ただ、親との関係が悪かったりすると、その移行対象に執着したりするようになる、らしい。
「――さっきから、『らしい』ばっかりじゃない」
彼の説明を聞いていた私が苦笑すると、彼は照れたように笑った。
「おれ、難しいこと分かんない。けど、そう言われたの。おれは歌ちゃんにとって、母親代わり、あるいは友達代わりだったんだって。で、そういう物には、魂が宿りやすいんだって」
「……誰に言われたの? それ」
「分かんない。でもその人が、おれを人間にしてくれたの。おれのお願い事を、聞いてくれたんだ」
彼はそう言うと、もう一度私を抱き寄せた。――幼いころ、私が彼を抱きしめていたように。
「……おれはね。ずっと悔しかったんだ」
耳元で聞こえる、彼の声。
「歌ちゃんが寂しい思いをしてる時も、泣いてる時も。何も言ってあげられないし、抱きしめてあげることもできない。話を聞くだけ、抱きしめられるだけ。それがとても悔しかった。――抱きしめられるんじゃなくて、……おれが歌ちゃんをを抱きしめたいって、いつも思ってたんだ」
私が家を出て、一人ぼっちになったクウは、毎日変わらない風景を見続けた。持ち主の戻らない部屋を。
赤と白のボーダー柄のセーター。紺色のジーンズ。白色のマフラー。栗色の毛。
見る角度によっては茶色にも見える、黒い瞳。想いとは裏腹に、動かない身体。
そんなぬいぐるみに、ある日『誰か』が声をかけた。
「誰か、っていっても、姿が見えたわけじゃないんだ。声が聞こえただけ」
――君の願い事は、なに?
『人間になりたい。歌ちゃんを抱きしめたい』
――君を人間にしてあげようか。ただし、対価がいる。
『たいかって、なに?』
――報酬のようなもの。君の魂を人間にする代わりに、君の身体を貰う。それに、いつまでも人間でいられるわけじゃない。君の『もうひとつの願い事』が叶ったら、君の魂は消滅する。……それでもいいなら、君を人間にしてあげよう。
「それで、おれは人間になれたんだ。……なんで今まで忘れてたんだろう」
「――待って。もうひとつの願い事って……」
「……うん」
彼は腕の力を少しだけ抜いて、私に笑いかけた。そこで、私はようやく気付く。
「ひとつめは、『人間になる』こと。もうひとつは、――『抱きしめる』こと」
――砂で出来た人形が風化するかのように、彼の姿が徐々に崩れていることに。
「……クウ」
「歌ちゃん。手、出して」
震えている私の右手に、彼はチョコチョコボールを乗せた。
毎日毎日、買いに来てくれた。会いに来てくれた。記憶を失っても、自分自身のことを忘れてしまっていても、それでも彼は、――私のために。
「歌ちゃん。一度、お家に帰ってみて」
自分の身体が崩れていても、彼は笑顔を崩さない。
「きっと、何かが変わるから。……ううん、変わったから。だから一度、帰ってみて」
泣き崩れそうになるのを、私は懸命に堪えた。最期まで、見守らなくちゃいけないと思ったから。彼がずっと、私のことを見守ってくれていたように。
「おれはそこにいないけど、歌ちゃんは一人じゃないから。覚えておいて」
「……うん」
スーパーで初めて出会った時と変わらない、屈託のない笑視を浮かべたまま、
「歌ちゃん、ばいばい」
さあっと音を立てて、彼の身体は風の中に溶けた。
ちゃんと帰宅するのは二年振り、だろうか。捨てられずにいた鍵を使って扉を開けると、私は自室に直行した。
最後に見たのと、ほとんど変わらない風景。
けれど、机の上にいたはずの「彼」の姿だけ、切り取ったみたいになくなっていた。
「クウ」
名前を呼んだところで、彼は戻ってこない。彼に向かって話しかけることも、一緒の布団で眠ることも、――抱きしめることも、もうできない。
「……クウ」
もう一度名前を呼び、机に近づこうとする私の背後から、聞き覚えのある乾いた音が鳴った。ボール型のチョコレートが、箱に当たる音。
ゆっくりと振り返った私の後ろにいたのは彼ではなく、母だった。
少しだけしわが増えて、少しだけ小さくなった彼女。その手に握られている、チョコチョコボール。――それはやっぱり、ハチミツ味で。
何年振りなのか、それすらも分からない言葉。
「――おかえり」
久しぶりに聞いた母の声は、みっともないくらいに震えて、ひっくり返って。
「おかえり……」
なのに母は、もう一度それを繰り返した。
「おかえり、歌子」
『きっと、何かが変わるから。……ううん、変わったから。だから一度、帰ってみて』
ここにはもう、彼の姿はないけれど。
私は彼と母に向かって、その言葉を口にした。
みっともないくらいに、震えた声で。
「――……ただいま」