05 おれの名前は、
「あ、歌ちゃーん! こっちだよ、こ……」
私に向かって叫んでいた彼の動きが、ぴたりと止まった。私はウェイトレスに何も注文せず、彼の向かいに腰掛ける。
ボーダー柄のセーター。癖のある栗色の髪。白い肌。何もかもが、いつもと同じ。
唯一違うのは、曇っている彼の表情だけだ。
「……歌ちゃん、どうしたの」
――ああ、声も違うか。いつもはもっと、子供みたいな能天気な声を出すくせに。
私は彼から目を逸らし、自分の爪を見ながら笑った。
「別に?」
「うそ。じゃあなんで泣いてるの」
「泣いてないわよ」
むしろ、目が乾いて仕方がないんだ。
――親のことも、自分のことも、何もかも。
何もかもを諦めたら、涙すら出なくなったから。
「けど、泣いてるみたいに見える」
「――うるさい」
落ち着かない様子で私の顔を覗きこむ彼の目を見据えて、私は言い放つ。
もう何だっていい。誰だっていい。――どうなったって、いい。
「ねえ、あんたはどこに住んでんの? 一人暮らし?」
「……分かんない」
「一体いつまで、はぐらかすつもりなの? 馬鹿にしてんの?」
「だって、本当に分かんないから……」
「そう。じゃあもういい」
私は立ち上がると、伝票と彼の腕を無理やり掴んだ。彼の腕が、目が、困惑するのが分かる。けれどそんなの、どうでもいい。
「――ねえ、ホテルに行こうよ」
私の言葉を聞いた彼が、子供のように首をかしげる。――純情ぶってるつもりかもしれないけれど、それがかえって私を苛立たせた。周囲にも聞こえるくらいの大声で、私は怒鳴るように彼に言い放つ。
「やらせてあげるって言ってんのよ! そんなことも『分かんない』の!? あんただって、最初から身体目的で私に近寄って来たんじゃないの!? 人間なんて結局、下心がないと動かないじゃない!!」
私の叫び声に、周囲の人間が目を丸くしている。けど、どうでもいい。どうせこいつらは、私の名前すら知らない。どうせ他人。これから私がこの男とホテルに行こうが、誘拐されようが、殺されようが、それはこいつらにとって『どうでもいいこと』なのだ。
――どうでもいいことばっかりで、うんざりする。この世界に。
「歌ちゃ……」
何か言おうとする彼の腕を乱暴に引っ張り立たせると、私はレジに伝票と千円札を一枚置いて、外に飛び出した。ホテル街に行くための裏道は、熟知している。私はあえて、狭い路地を歩き始めた。
数メートル間隔で光っている街灯が、妙に白く浮きたって見えた。
「歌ちゃん、歌ちゃん待ってよ。ねえ歌ちゃん」
腕を引っ張られ、私の後ろをもたもたと歩いている彼が、執拗に私の名前を呼ぶ。けれど、掴んだ腕を放すつもりも、歩く速度を落とすつもりもなかった。
――もしかしたら、掴まれている腕が痛いのかもしれない。
そんなことを考えた直後、私の目の前にチョコチョコボールが現れた。
「……は?」
後方から伸びている手。それは間違いなく、彼の手だった。私に掴まれていない右手でチョコチョコボールを取り出した彼は、私の眼前にそれをつきだした……らしい。
ハチミツ味のそれは、私の担当しているレジで彼が購入したものだ。
「歌ちゃん、昔よくこれ食べてたでしょ。元気が出るからって。だから、あげる」
彼の手が箱を左右に振ると、中に入っているボール型のチョコが、ガラガラと音を立てた。
……自分自身でも忘れていたけど、確かに小さい頃は食べていた。お年玉で大人買いをして、毎日少しずつ。
「どうして……」
私は彼の左腕を解放し、振り返った。そこには、いつもよりもふわりと笑っている彼。
「歌ちゃんが勉強してたことも、このお菓子をよく食べてたことも、夜中に一人で泣いてたことも、知ってる。――今の歌ちゃんが、昔と変わってないことも」
私が掴んでいた箇所をさすりながら、彼は首をかしげて微笑む。
「おれは知ってる。覚えてるよ。……歌ちゃん」
――爪なんか、立てなくても。
「なんで、私のこと……」
「おれ、おれのこと分かんない。――ごめんね」
さっき私が怒鳴ったせいか、彼は泣きそうな顔でそう言った。その様子がおかしくて、私は目を細めた。許容量を超えた涙が、頬を伝うのが分かる。
笑いながら泣いている私を見て、彼はキョトンとした。
「歌ちゃん、楽しいの? 悲しいの?」
「……分かんない」
分かんないは、彼の口ぐせなのに。そう考えるとおかしくて、私はまた笑った。笑いながら泣き続ける私を見て、彼はそわそわと肩を揺らした。そして、
「――……歌ちゃん、抱きしめていい?」
敬語じゃないけど、やっぱり訊いてくるのか。
「……あんた馬鹿? 空気読んでよ」
「空気読む? それってどうやっ……」
彼が最後まで言いきる前に、私は彼によりかかった。
一人で立ち続けるのは、もう限界だったから。
「え、あ、わわっ……」
あれだけしつこく「抱きしめていいか」と訊いてきた割に、いざとなると慌てふためく彼がおかしくて、私は笑った。
遠慮がちに、けれど思った以上に力強く、彼は私の身体を抱きしめる。彼と私はほぼ同時に、目を閉じた。
次の瞬間、溢れだす記憶。
『みてみて!! またテストで100てんとったよ!! ねえ、きょうはおかあさんほめてくれるかなあ』
――話しているのは、幼いころの私だ。テスト用紙を、ぴらぴらと振って見せながら、笑いかけている。
『きょうもお家でべんきょうするから、いっしょにいようね』
これも、私の声……?
考える余裕もないスピードで、次々とめくられていく記憶。
『おかあさん、今日もかえってこないのかなあ……』
窓の外は真っ暗。部屋の中も真っ暗。頭上から降る私の声と、
『――やっぱり意味ないんだ。お母さんは、私のこと嫌いなんだ。だから話してくれない。テストでいい点取っても、意味ない。頑張っても疲れるだけ。ねえ、そう思わない? もう疲れたよ……』
透明な雫が、「彼」の身体に当たった。強く抱きしめられる感覚。
「彼」を抱きしめる、私。
小刻みに震える私の身体を見守る、「彼」。
――ああ、彼は。
「――……っ」
顔をあげると、彼と目があった。癖のある栗色の髪。赤と白のボーダー柄セーター。紺色のジーンズ。白色のマフラー。
「――歌ちゃん」
彼にも、私と同じ映像が見えたのだろうか。彼は泣きそうな顔で、笑ってみせた。
「思い出した。おれ……」
孤独な時間の中で、私と一緒にいてくれたんだ。ずっと。
「おれの名前は、――クウ」
毎日彼に話しかけていたのは、私だった。
「ぬいぐるみの、クウだよ」
彼を抱きしめていたのは、私の方だったんだ。