表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

05 おれの名前は、

「あ、歌ちゃーん! こっちだよ、こ……」


 私に向かって叫んでいた彼の動きが、ぴたりと止まった。私はウェイトレスに何も注文せず、彼の向かいに腰掛ける。

 ボーダー柄のセーター。癖のある栗色の髪。白い肌。何もかもが、いつもと同じ。

 唯一違うのは、曇っている彼の表情だけだ。


「……歌ちゃん、どうしたの」


 ――ああ、声も違うか。いつもはもっと、子供みたいな能天気な声を出すくせに。

 私は彼から目を逸らし、自分の爪を見ながら笑った。


「別に?」

「うそ。じゃあなんで泣いてるの」

「泣いてないわよ」


 むしろ、目が乾いて仕方がないんだ。

 ――親のことも、自分のことも、何もかも。

 何もかもを諦めたら、涙すら出なくなったから。


「けど、泣いてるみたいに見える」

「――うるさい」


 落ち着かない様子で私の顔を覗きこむ彼の目を見据えて、私は言い放つ。

 もう何だっていい。誰だっていい。――どうなったって、いい。


「ねえ、あんたはどこに住んでんの? 一人暮らし?」

「……分かんない」

「一体いつまで、はぐらかすつもりなの? 馬鹿にしてんの?」

「だって、本当に分かんないから……」

「そう。じゃあもういい」


 私は立ち上がると、伝票と彼の腕を無理やり掴んだ。彼の腕が、目が、困惑するのが分かる。けれどそんなの、どうでもいい。


「――ねえ、ホテルに行こうよ」


 私の言葉を聞いた彼が、子供のように首をかしげる。――純情ぶってるつもりかもしれないけれど、それがかえって私を苛立たせた。周囲にも聞こえるくらいの大声で、私は怒鳴るように彼に言い放つ。



「やらせてあげるって言ってんのよ! そんなことも『分かんない』の!? あんただって、最初から身体目的で私に近寄って来たんじゃないの!? 人間なんて結局、下心がないと動かないじゃない!!」



 私の叫び声に、周囲の人間が目を丸くしている。けど、どうでもいい。どうせこいつらは、私の名前すら知らない。どうせ他人。これから私がこの男とホテルに行こうが、誘拐されようが、殺されようが、それはこいつらにとって『どうでもいいこと』なのだ。


 ――どうでもいいことばっかりで、うんざりする。この世界に。


「歌ちゃ……」


 何か言おうとする彼の腕を乱暴に引っ張り立たせると、私はレジに伝票と千円札を一枚置いて、外に飛び出した。ホテル街に行くための裏道は、熟知している。私はあえて、狭い路地を歩き始めた。

 数メートル間隔で光っている街灯が、妙に白く浮きたって見えた。


「歌ちゃん、歌ちゃん待ってよ。ねえ歌ちゃん」


 腕を引っ張られ、私の後ろをもたもたと歩いている彼が、執拗に私の名前を呼ぶ。けれど、掴んだ腕を放すつもりも、歩く速度を落とすつもりもなかった。


 ――もしかしたら、掴まれている腕が痛いのかもしれない。


 そんなことを考えた直後、私の目の前にチョコチョコボールが現れた。


「……は?」


 後方から伸びている手。それは間違いなく、彼の手だった。私に掴まれていない右手でチョコチョコボールを取り出した彼は、私の眼前にそれをつきだした……らしい。

 ハチミツ味のそれは、私の担当しているレジで彼が購入したものだ。


「歌ちゃん、昔よくこれ食べてたでしょ。元気が出るからって。だから、あげる」


 彼の手が箱を左右に振ると、中に入っているボール型のチョコが、ガラガラと音を立てた。

 ……自分自身でも忘れていたけど、確かに小さい頃は食べていた。お年玉で大人買いをして、毎日少しずつ。


「どうして……」


 私は彼の左腕を解放し、振り返った。そこには、いつもよりもふわりと笑っている彼。


「歌ちゃんが勉強してたことも、このお菓子をよく食べてたことも、夜中に一人で泣いてたことも、知ってる。――今の歌ちゃんが、昔と変わってないことも」


 私が掴んでいた箇所うでをさすりながら、彼は首をかしげて微笑む。


「おれは知ってる。覚えてるよ。……歌ちゃん」



 ――爪なんか、立てなくても。



「なんで、私のこと……」

「おれ、おれのこと分かんない。――ごめんね」


 さっき私が怒鳴ったせいか、彼は泣きそうな顔でそう言った。その様子がおかしくて、私は目を細めた。許容量を超えた涙が、頬を伝うのが分かる。

 笑いながら泣いている私を見て、彼はキョトンとした。


「歌ちゃん、楽しいの? 悲しいの?」

「……分かんない」


 分かんないは、彼の口ぐせなのに。そう考えるとおかしくて、私はまた笑った。笑いながら泣き続ける私を見て、彼はそわそわと肩を揺らした。そして、


「――……歌ちゃん、抱きしめていい?」


 敬語じゃないけど、やっぱり訊いてくるのか。


「……あんた馬鹿? 空気読んでよ」

「空気読む? それってどうやっ……」


 彼が最後まで言いきる前に、私は彼によりかかった。

 一人で立ち続けるのは、もう限界だったから。


「え、あ、わわっ……」


 あれだけしつこく「抱きしめていいか」と訊いてきた割に、いざとなると慌てふためく彼がおかしくて、私は笑った。

 遠慮がちに、けれど思った以上に力強く、彼は私の身体を抱きしめる。彼と私はほぼ同時に、目を閉じた。





 次の瞬間、溢れだす記憶。





『みてみて!! またテストで100てんとったよ!! ねえ、きょうはおかあさんほめてくれるかなあ』


 ――話しているのは、幼いころの私だ。テスト用紙を、ぴらぴらと振って見せながら、笑いかけている。


『きょうもお家でべんきょうするから、いっしょにいようね』


 これも、私の声……?

 考える余裕もないスピードで、次々とめくられていく記憶。


『おかあさん、今日もかえってこないのかなあ……』


 窓の外は真っ暗。部屋の中も真っ暗。頭上から降る私の声と、


『――やっぱり意味ないんだ。お母さんは、私のこと嫌いなんだ。だから話してくれない。テストでいい点取っても、意味ない。頑張っても疲れるだけ。ねえ、そう思わない? もう疲れたよ……』


 透明な雫が、「彼」の身体に当たった。強く抱きしめられる感覚。

「彼」を抱きしめる、私。

 小刻みに震える私の身体を見守る、「彼」。


 ――ああ、彼は。





「――……っ」


 顔をあげると、彼と目があった。癖のある栗色の髪。赤と白のボーダー柄セーター。紺色のジーンズ。白色のマフラー。


「――歌ちゃん」


 彼にも、私と同じ映像が見えたのだろうか。彼は泣きそうな顔で、笑ってみせた。


「思い出した。おれ……」


 孤独な時間の中で、私と一緒にいてくれたんだ。ずっと。


「おれの名前は、――クウ」


 毎日彼に話しかけていたのは、私だった。



「ぬいぐるみの、クウだよ」



 彼を抱きしめていたのは、私の方だったんだ。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ