04 堕落
男の家のドアをあけると、気分の悪くなりそうな芳香剤の匂いがした。小さな靴箱に、見慣れない青色の箱が置かれていることに気付く。
――マリンの香りとか書いてあるけれど、匂いがきつすぎる。これが本当に海の匂いだったら、間違いなくその海は腐ってるだろう。
「お前最近、ここに帰ってこないな」
関心なさそうな声で、私の方には目も向けずに男は言った。彼は今、小さなテレビで朝のニュースを熱心に見ている。といっても、政治経済じゃなくてスポーツ関連だけど。
私は無言で男のベッドに腰掛け、『その形跡』をさがした。
……すぐに見つかる、茶色の髪。私も男も、髪の色は、黒だ。
私はその髪を拾い上げると、男の方を見た。
「……誰か泊めたの?」
「…………」
「私に飽きた?」
男は無言で、テレビを消した。うんざりと言わんばかりの顔で立ち上がると、私に向かって吐き捨てる。
「初めから、『そういう関係』じゃなかっただろ。俺達は」
男の返答に、私は自嘲気味に笑った。手に持っていた茶色の髪を、もう一度ベッドの上に落とす。
そういう関係じゃ、なかった。
「……うん。私は出ていった方がいい?」
「好きにしろよ」
男はそれだけ言うと、外に出ていった。必要以上に大きな動作で閉められる、ドア。私はため息をついて、床に座り込んだ。
そう。私はあいつにとって、ただのおもちゃにすぎない。
飽きたら捨てられる。捨てたおもちゃのことなんて、誰も気にとめない。
誰にも覚えてもらえない。誰にも思い出してもらえない。
誰にも。
『爪立てるなって言ってんだろが』
「……ちょっとくらい、いいじゃない」
半日くらい、私の爪痕を残してくれても。
捨てたおもちゃのことなんて、どうせすぐに忘れてしまうんだから。
昔話を思い出そうとすると、最初に出てくるのは『テスト』の話だ。
両親が離婚し、母に引き取られた私は、ほとんどの時間を一人で過ごしていた。
母も忙しかったんだろう。仕事に追われて、残業して。
夜遅くに帰ってきて、朝早くに家を出る。机に置かれている、スーパーの総菜。
――私はその惣菜が、母の愛情だと思っていた。母は、私のことを想ってくれているんだとも。
たとえ、親子同士の会話が一切なくても。
名前を、呼んでもらえなくても。
あれはいつだっただろう。ある日、友達の家に遊びに行った私は、90点のテストが冷蔵庫に貼り付けられているのを見つけた。やったね! と書かれた、ピンク色のマグネットで貼り付けられたテストを指差し、私は首をかしげた。
「これなあに?」
尋ねると、友人は照れ笑いしながら言った。
「テストでいい点とるとね、おかあさんがほめてくれるの。それで、そのテストをれいぞうこに貼ってくれるの。よくがんばりました、って」
それを聞いた私は、自分のテストを冷蔵庫に貼ろうと思った。母と会話するきっかけにならないかと、思ったんだ。
その日から私は、熱心に勉強するようになった。友達との遊びもすべて断った。
学校が終わると同時に家まで走って帰る。ランドセルから宿題を取り出し、済ませる。予習復習する。
一人きりでいる時間が、増えた。それとは反比例するかのように、友達は減った。
部屋に響く、時計の秒針の音。外から聞こえる子供の笑い声。減るのが早くなった、鉛筆と消しゴム。机の上に置いてある熊のぬいぐるみに話しかけ、一人で笑う。
テストでいい点取ったら、おかあさんもほめてくれるよね。
冷蔵庫の見えやすい位置に貼り付ける、100点のテスト。そのために、勉強する時間。増え続ける、孤独な時間。孤独とぬいぐるみを一緒に抱きかかえる。ぬいぐるみに吸収されていく、独り言。
100点のテストは、翌日には冷蔵庫から外されていた。
ほらね、おかあさん見てくれてるもん。ぜったいに、ほめてくれるよ。いつかぜったい、ほめてくれるから……。
――あの事実に気付いたのは、いつだったろう。
冷蔵庫から外されたテストは、ぐしゃぐしゃに丸められて、ゴミ箱に捨てられていることに。
……試してみたくなった。母がちゃんと、私のテストを見てくれているのかどうか。
ある日、私はわざと、テストを白紙で提出した。返ってくるのはもちろん、0点のテストだ。それをいつものように、冷蔵庫に貼りつけた。見えやすい位置に、わざとらしく。
おこられる、よね。だって、0点だよ?
――けれど、結果は一緒だった。
丸められて、捨てられるだけ。怒られもしない、声もかけられない、心配もされない。
そこで私は、ようやく気付いたんだ。
あの母にとって、私はどこまでもどうでもいい存在なのだと。
すぐに忘れてしまうような存在なのだと。
――まるで、捨てられたおもちゃのように。
男のいない部屋で、私は一人で笑った。馬鹿みたいに。
堕ちるのは簡単だった。
頑張るのを辞めるだけでよかったんだから。
冷蔵庫に、テストを貼るのを辞めた。母の買ってきた惣菜を食べるのも辞めた。家に帰る回数はどんどん減った。そのうち帰らなくなった。
欲しくもない物を盗んでみた。誰にも気づかれなかったことに拍子抜けした。
校内でわざと煙草を吸ってみた。誰にも注意されなかったことに拍子抜けした。
欲しくもない男を、その体温を求めた。私に声をかけてくれる男なら、誰でもよかった。
――そう。
気付いてほしかっただけなんだ。
覚えてほしかっただけ。一日だけでも。
「――爪痕くらい、いいじゃない」
一日だけ、私の存在をその背中に刻んだっていいじゃない。
「自分でも、もう分からなくなってるんだもの」
自分が、『ここ』に存在しているのかどうか。
赤色に染まった部屋で、私はひとしきり笑ってから、自分の荷物をまとめ始めた。荷物といっても最低限だけれど。
――今晩、泊まる場所。
思いつく人間は、一人。
私は俯いたまま微笑むと、机の上に合鍵を置き、男の家を出た。