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02 爪

「爪立てるなって言ってんだろが。猫かよお前は」


 上半身裸の男が文句を言いつつ、冷蔵庫に飲み物を取りに行く様子を、私はベッドの上で眺めていた。

 ここは、私の家ではない。目の前にいる男の家だ。そして目の前の男は、私の彼氏……というわけでもなかった。私は彼のことを好きではないし、彼もきっと同じだろう。彼は家を提供し、私は家賃代わりに身体を売る、そんな関係。


 私には帰る家が、ある。ただ、帰りたくないだけだ。帰ったって、虚しいだけだから。


「おい、聞いてんのか歌子。結構痛いんだぞ? これ」


 私は答えない。


『行為中、私が彼の背中に爪を立てること』について、先ほどから散々文句を言われているのは知っているし聞こえている。だけど、謝るつもりはない。


 だって、わざとやってるんだから。


「またたぬき寝入りか? あーあ」


 男の文句を聞き流しながら、私は違う男の声を思い出していた。



『100点満点の、テスト』



 どうしてあいつが、そのことを知ってるんだろう。




「抱きしめさせてください」


 二日連続で、その言葉を聞く羽目になるとは思っていなかった。昨日同様、チョコチョコボールのハチミツ味を一箱だけ持ってきた彼は、無邪気な笑顔でそのセリフを繰り返した。


「抱きしめさせてください」

「……お会計、一点で五十八円です」

「抱きしめさせてください」


 デジャビュだ。ていうか実際問題、本当に繰り返し経験してるんだけど。


「どういうことなの……」

「歌ちゃんは今、男性客に『抱きしめさせてください』と言われてるんだよ」

「そんな実況を求めたんじゃないわよ」


 睨みつける私に、へらへらとした笑顔を返してくる青年。差し出されるのはやっぱり、生温かい百円玉だ。更にいうと、彼の服装すら、昨日とまったく同じだった。


「どういうことなの……」

「おつりは、四十二円だよ」

「計算できなくて悩んだんじゃないわよ」


 昨日同様、チョコチョコボールにシールを貼り、お釣りとレシートを彼に渡す。その間五回ほど、「抱きしめさせてください」と言われ続けた。私はため息をつく。妙な男に目をつけられた、としか言いようがない。大体、


「歌ちゃんとか、あんたに呼ばれる筋合いは……」


 そう言いかけて、気付いた。

 店から配布されている名札には、名字の『皆川みながわ』しか書かれていないことに。


「――……どういうことなの」

「歌ちゃんって呼ばれるのが嫌だったら、歌子ちゃんにするよ」

「そういう問題じゃないわよ」

「歌ちゃん、うしろ。お客さん並んできてるよ」


 誰のせいだと思ってるんだこいつは。


「また来るね、歌ちゃん」


 無邪気に手を振る彼に、私はマニュアル通り「ありがとうございました」と声をかけた。



 その数時間後に、彼と再会するとも知らずに。




 今日は、出待ちされていなかった。私は安堵のため息をついて、従業員用裏口を閉めた。向かう先は、同居中の男の家でも、実家でもない。ファミレスだ。なんとなく、今日は男の家に帰りたくなかった。そういう日は結構あって、私はその度にファミレスやファーストフードで朝まで時間を潰していた。

 一人で過ごすその時間は貴重だけれど無駄でもあり、必要だけれど、――寂しい。


 しかし、寂しいからと言って


「あー、歌ちゃんだー!!」


 変な男と一緒に過ごしたいと思った覚えはない。


「なんであんたがここにいる……!?」


 窓際の席で、行き交う車のライトを見ながら一人たそがれていた私は、嫌なくらいに聞き覚えのある声を聞いて頭を抱えた。彼は遠慮することなくズカズカとこちらにやってくると、ドリンクバー専用のカップを机に置き、更には私の隣に腰掛けた。


「……なんで横並び?」


 私が眉をひそめると、彼は照れ臭そうに笑った。


「えへへー。このままギュッと抱き寄せて」

「向かい側に座れ」


 しょぼーん。

 やっぱりそんな擬音がぴったりの顔をして、彼はいそいそと私の向かいに腰掛けた。「帰れ」と言われなかっただけ、マシだと思え。


 正直、身体を売ってるわたしからすれば、見知らぬ男に抱きしめられようがなんてことはない。ただ、私はあま邪鬼じゃくなのだ。「抱きしめさせてくれ」と言われたら、拒否したくなる。まあ、「抱きしめたくない」と言われれば、それはそれで抱きしめさせないが。


「……あんた、名前は?」


 目の前で甘ったるいココアを飲んでいる男に少しだけ興味を持った私は、頬杖をつきながら尋ねてみた。ココアから口を放した彼は、首をかしげる。


「……分かんない」

「分かんない?」


「おれ、おれのこと分かんない。覚えてない。気づいたら、ここにいたの。おれ、誰なんだろ? 名前も分かんない。でも、歌ちゃんのことは、知ってたの」


 ――……どういうことなの?


 本日何回目か分からない言葉を、私は内心で繰り返した。




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