01 抱きしめさせてください
あなたは初対面の人に、「抱きしめさせてください」と言われたことがあるだろうか。私は、ない。――というか、なかった。
「お願いします、抱きしめさせてください」
今、目の前にいる、この青年以外には。
場所は、私のアルバイト先だ。スーパーだ。さらに細かくいうと、地域密着型スーパーの、レジだ。そして今、そんなことはどうでもいい。ものすごく、どうでもいい。
「抱きしめさせてください」
「……お会計、一点で五十八円です」
「抱きしめさせてください」
私のスルーを華麗にスルーし繰り返される彼の言葉に、私は絶句した。
ちなみに彼がレジに持ってきたのは、一箱五十八円(今月セール品)のチョコレートだ。さらに細かくいうと、商品名はチョコチョコボール。彼が握りしめてきたのは、ハチミツ味のチョコチョコボールだ。
そして今、そんなことはどうでもいい。ものすごく、どうでもいい。
「…………シールで失礼します」
「抱きしめさせてください」
一体何なんだこの男は。
私は不審者を見る目で、彼の姿を上から下まで確認した。年は十六歳から十八歳というところだろうか。もしも、彼がレジに持ってきた商品がチョコチョコボールじゃなくてアルコールだったら、年齢確認をしていただろう。そういう私は、「好きなアルコールは生ビールと芋焼酎です!」と答える十七歳だが。
栗色の短髪は若干うねっていて、肌の色がかなり白いこともふまえると、外人に見えなくもない。いや、もしかしたら外人、あるいはハーフなのかもしれない。目は、黒に近い焦げ茶色だ。黒だと言ってもいい。
服装は、赤と白のボーダーのセーターに、紺色のジーンズ。更に、白色のマフラー。……なんともいえないファッションセンスだ。大きな毛玉の目立つセーターを見て、新しいのを買えばいいのに、と思った。
というか、上着なしで寒くないのだろうか。まだ三月なのに。
不審者を見る目つきをしている私のことなど気にもせず、彼は笑顔で話を続けた。
「抱きしめさせてください」
「……冗談はやめてください。しつこいと警察呼びますよ」
今でも十分にしつこいが、ここは『警察を呼びます』という脅し文句の力を借りることにしよう。
――だが、
「警察を呼ぶ前に、一度だけでいいんで抱きしめさせてください」
日本語が通じているのかと訊きたくなる、この謎の返答である。どうすればいいんだろう、店長を呼ぶべきなんだろうか。
確かに今まであれこれあったし、変な男に因縁をつけられる覚えもあるけど、ここまでおかしな男に言い寄られる覚えはない。
「抱きしめさせてください」
抱きしめさせてくれ、と言ってくるだけ律儀なのかもしれない。と、思い始めた私の頭も、どうかしている気がする。
――彼の後ろに、他のお客様が並びだした。まずい、いい加減にどうにかしないと。
私は後ろのお客様に向かって申し訳なさそうな顔をしてから、もう一度彼と向き合った。
「お客様のご要望にはお応えすることができません。一点で、五十八円です」
しょぼーん。
そんな擬音がぴったりの顔をしながら、彼は百円玉を一枚、私の方に差し出してきた。ずっと握っていたらしいそれは、生温かくて鳥肌が立った。
「……四十二円のお釣りです」
私は接触しないよう慎重に、彼の手の平にお釣りを乗せた。
とぼとぼと帰る彼の後姿には、妙に哀愁が漂っていて。――そんな後ろ姿を見ながら、私はため息をついた。
終わったと、思っていたから。
「抱きしめさせてください」
バイト帰り、従業員用裏口から店を出た私はギョッとした。例の彼が、そこに立っていたのだ。薄暗くなった空の下、上着も着ずに。
「え、嘘……。ずっと待ってたの?」
「うん」
子供みたいな無邪気な顔で、彼は笑った。
――どうする。店内に逃げ込む? それとも、交番に駆け込む?
私は白いため息をついて、裏口の扉にもたれかかった。百七十センチほどの彼を見上げながら、吐き捨てる。
「私とあなた、会ったことあったっけ? ていうか、あんた誰」
「……おれも分かんない。でも、きみのことは覚えてる。知ってる」
「はあ?」
「100点満点の、テスト」
彼の言葉に、私の中の何かが刺激された。呆然とする私に、彼は目を細める。
「おれ、おれのこと分かんない。でも、きみのことは知ってる。……歌ちゃん」