綺麗な真実より、汚れた救いを
町の端にある小さな診療所。その看板は潮風にさらされて剥げかかり、内科医の矢口陽介は、診察室の椅子に深く沈み込んでいました。
矢口は白衣のポケットから競艇の出走表を取り出し、赤ペンで印をつけながら、診察室に入ってきた青年に目を向けました。青年は難病を患い、都会の大きな病院から「もう治療法がない」と言い渡されて帰ってきたばかりでした。
「先生、僕はあとどれくらい生きられますか」
震える声で問う青年に、矢口は聴診器を当てることすらせず、気だるそうに鼻を鳴らしました。
「あんたの今の勝率、二パーセントやな」
青年は絶句しました。あまりにも残酷で、血の通わない数字の宣告。矢口は続けました。
「単勝なら大穴、まず当たらん。でもな、この二パーセントを全額一点買いするバカがおったら、そいつは本物の勝負師やと思わんか?」
矢口は机の引き出しから、古いラムネの小瓶を取り出しました。
「これはな、医学界の裏側で密かに流通してる、負け犬専用のブースターや。二パーセントの勝ち筋を引き寄せるためだけの薬やけど、代償は高いで。あんたのこれからの人生、一秒たりとも『死ぬかも』なんて弱音を吐くことを禁じる。もし一回でも吐いたら、その瞬間に負け確定や。この賭け、乗るか?」
それは、極限の状態に人間を追い込み、精神の力で免疫を強制起動させるという、矢口なりの精密な心理ロジックでした。彼は知っていました。正論や慰めは、時に毒よりも深く人を腐らせることを。
青年は、矢口の濁った、けれどどこか射抜くような鋭い瞳を見つめ返し、震える手でその瓶を受け取りました。
それから毎日、矢口は往診に出かけました。といっても、医療行為らしいことは何一つしません。青年の枕元で、自分の借金がいかに膨らんでいるか、昨日のレースがいかに惜しかったかという、最低でくだらない話を延々と聞かせるだけでした。
「先生、そんな話ばっかり……」
「黙れ、二パーセントが逃げるぞ。笑え。笑って神様を油断させんのが、逆転の定石や」
青年の表情に、少しずつ色が戻り始めました。矢口の語る救いようのないクズな日常が、死の恐怖に支配されていた青年の心に、泥臭い「生」の匂いを吹き込んでいったのです。
夜、診療所に一人残った矢口は、都会の病院から取り寄せた最新の論文を隅々まで読み耽っていました。彼の目には、日中の気だるさは微塵もありません。一パーセントでも、コンマ数パーセントでも、青年の生存率を上げるための「イカサマの算段」を、彼は孤独に、そして執拗に計算し続けていたのです。
数ヶ月後、奇跡は起きました。青年の病状は劇的に改善し、再検査の結果、病巣は跡形もなく消えていました。町の人々は、矢口が持っていた魔法の薬のおかげだと噂し、彼を名医だと称え始めました。
しかし、矢口はいつものようにシワだらけの白衣を翻し、荷物をまとめていました。
「先生、行っちゃうんですか?」
元気になった青年が駆けつけると、矢口はボートレースのラジオを耳に当てたまま、一度も振り返りませんでした。
「二パーセントを引き当てたのはあんたや。俺はただ、横でヤジ飛ばしてただけやからな。それに、この町の人ら、俺を聖者かなんかと勘違いし始めてる。居心地悪うてしゃあないわ」
矢口は、空になったラムネの小瓶をゴミ箱に放り投げ、港に停まった古い船に乗り込みました。
「ええか、人生は常に期待値の奪い合いや。次からは自分で勝率上げろよ」
船が岸を離れる時、矢口はポケットから新しい出走表を取り出しました。彼の横顔には、誰にも見せない深い悲しみと、それでもなお明日を信じようとする、不敵な笑みが浮かんでいました。
太陽が海に沈み、新しい夜が始まります。嘘つきでクズな、けれど誰よりも一パーセントの逆転を信じる内科医は、また別の絶望が待つ場所へと、静かに流れていくのでした。




