魔女先輩とお守りの確率論
放課後の部室には、カリカリというシャーペンの音だけが響いていた。
来週は数学の実力テストがある。赤点を取ると部活動停止処分になるため、僕は必死で過去問を解いていた。
「……透くん」
不意に名前を呼ばれ、僕は顔を上げた。
窓際で紅茶を飲んでいた静久先輩が、カップを置いてこちらに歩いてくる。
「邪魔しないでください。今、積分の計算中なんで」
「はいはい。……あのさ、これあげる」
視界の端に、何かが差し出された。
顔を上げると、先輩の手のひらに、青と白の刺繍糸で編まれたミサンガが乗っている。網目は少し不揃いで、いかにも手作りといった感じだ。
「……何ですか、これ」
「合格祈願のミサンガ。私が編んだの」
「先輩が?」
「うん。昨日の夜、ちょっとね。……合格の魔術を込めておいたから」
先輩は珍しく僕の目を真っ直ぐ見ず、少し照れくさそうに指先で頬を掻いている。
指先には、小さな絆創膏が貼られている。編み慣れていない証拠だ。
いつもの「からかい」ではない。純粋な善意だというのは分かった。
――だが。
今の僕の頭の中は、数式と論理で埋め尽くされている。余裕がなかった。
「……先輩。気持ちはありがたいですが、要りません」
「え?」
「確率論的に、紐一本で点数が上がるわけがありません」
僕は手を止めず、冷淡に告げた。
先輩の手が止まる。でも、僕は止まらなかった。
「自分の実力で解いてこそ意味があるんです。神頼みとか、おまじないとか、そういう非科学的な気休めは――今の僕にはノイズです」
言い切って、僕は再びノートに視線を落とした。
正論だ。何も間違ったことは言っていない。学生にとって最も必要なのは、冷静な自己分析と学習量だ。
部室に、重苦しい沈黙が落ちた。
「…………そっか」
消え入りそうな声。
顔を上げると、先輩はスッと表情を消していた。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、寂しそうに微笑んでいた。
「そうだよね。透くんは、そういうの信じないもんね。……ごめんね、変なもの押し付けて。邪魔だよね」
先輩はミサンガをギュッと握り込み、自分のスカートのポケットに乱暴に突っ込んだ。
そして椅子を回転させ、窓の外を向いてしまった。
――カリ、カリ……。
シャーペンの音だけが、空虚に響く。
数式が頭に入ってこない。
胸の奥が、締め付けられるように苦しい。
(……何だ、この感覚は)
僕は正しいことを言ったはずだ。非科学的な依存を否定し、自立を促した。論理的に正しい。
でも、先輩は傷ついた。
お守りの効果を否定されたからじゃない。
「応援したい」という気持ちを、「ノイズ」として切り捨てられたからだ。
――『合格の魔術を込めておいたから』
昨日の夜、先輩が一人で、慣れない手つきでこれを編んでいる姿が脳裏に浮かぶ。
それを僕は、「要らない」と一蹴した。
それは、正論という名の暴力だ。
パキッ。
シャーペンの芯が折れた。
「……先輩」
僕は勉強道具を置いた。
先輩は振り返らない。窓の外を見たまま、微動だにしない。
「さっきの発言、訂正します」
「……いいよ。気にしてないし。透くんの言う通りだし」
「違います。僕が間違ってました」
僕は椅子から立ち上がり、先輩の背中に歩み寄った。
「確率論とか、どうでもいいです。……それ、やっぱりください」
「……は?」
先輩がようやく振り返る。その瞳は少し潤んでいて、不信感に満ちていた。
「ノイズなんでしょ? 要らないんでしょ?」
「必要です」
僕は先輩の目を見て、はっきりと言った。
「科学的根拠はありません。でも……先輩が編んでくれたなら、それが一番効く気がするんで」
論理などかなぐり捨てた、ただの感情論。
今の僕が導き出せる、精一杯の「正解」だった。
先輩はしばらく僕の顔をじっと見つめていたが、やがて大きなため息をついた。
「……バカ透」
ポケットから、くしゃくしゃになったミサンガを取り出すと、ぶっきらぼうに僕に投げつけてきた。
「……知らない。テスト落ちても」
宙を舞ったミサンガを、僕は片手でキャッチした。
少し歪な編み目。でも、温かい気がした。
僕はそれを左手首に巻き、ぎゅっと結んだ。
「落ちませんよ。最強の魔術がかかってるんですから」
僕が言うと、先輩は再び窓の外を向いてしまった。
でも、ガラスに映ったその横顔は、口元が少し緩んでいて、耳まで真っ赤だった。
オカルト部の魔女先輩は、僕の不器用な謝罪を受け入れて、少しだけ優しくなる。




