魔女先輩とプラシーボ効果
放課後の理科準備室――ではなく、オカルト研究部の部室。
今日の部室には、いつものお香の匂いに混じって、清涼飲料水のような甘い香りが漂っていた。
「完成したよ、透くん。魔女の秘薬、第二弾」
窓際に座る静久先輩が、実験用の三角フラスコを僕の目の前に掲げた。
中には、鮮やかなマリンブルーの液体が揺れている。見た目は綺麗だが、この場所にあるというだけで警戒レベルは最大だ。
「……何ですか、それ。かき氷のシロップですか?」
「失敬な。これは『真実の口薬』。飲むと嘘がつけなくなる、いわゆる自白剤だよ」
先輩はフラスコをくるくると回し、妖艶に微笑む。
「透くん、いつもポーカーフェイスで本心隠してるからさ。これ飲ませて、本当のこと喋らせようと思って」
「人権侵害じゃないですか」
「安心して。人体に害はない成分で調合してるから。……たぶん」
「たぶん!?」
僕はフラスコを受け取り、光にかざして観察する。
気泡はない。沈殿物もなし。どう見てもただの炭酸飲料だ。
「……先輩。『プラシーボ効果』という言葉を知っていますか?」
「ぷらしーぼ?」
「ええ。薬効成分が含まれていない偽薬でも、『これは効く』と思い込んで飲むと、実際に症状が改善したり、副作用が出たりする現象です」
僕は鼻で笑い、フラスコをテーブルに置いた。
「つまり、その薬に魔法的な効果などない。あるとすれば『嘘がつけなくなる』という暗示だけです。だとしたら、僕が『これはただのジュースだ』と強く認識して飲めば、暗示は無効化できる。違いますか?」
「ふーん……。じゃあ、試してみる?」
先輩が挑発的に眉を上げる。
望むところだ。今日の僕は、いつもの受け身な僕じゃない。
「いいですよ。科学の力で、その暗示を打ち破ってみせます」
僕はフラスコを煽り、一気に飲み干した。
喉に炭酸の刺激が走る。味は……予想通り、市販のサイダーだ。少しレモンの風味がする。
「ごちそうさまでした。やっぱり、何も変わりませんよ」
「そうかな? もう効いてる頃だと思うけど」
先輩が椅子から立ち上がり、ゆっくりと僕に近づいてくる。
いつもの距離詰め攻撃だ。でも、今日は効かない。僕の脳内は冷静な論理で満たされている。
「じゃあ、テスト」
先輩は僕の目の前で立ち止まり、上目遣いで覗き込んできた。
長い睫毛。整った鼻筋。吐息がかかる距離。
いつものように心拍数が上がりそうになるのを、僕は理屈でねじ伏せる。
「透くん」
「はい」
「……私のこと、嫌い?」
直球の質問。
なるほど、そう来たか。
ここで僕が口ごもったり、肯定しきれなかったりすれば、先輩は「図星だ、薬が効いて本音が言えなくなってる」とからかうつもりだろう。
ならば、正解は一つ。
僕の本心は――もちろん、嫌いじゃない。むしろ、その逆だ。
だからこそ、この場面で「嫌いです」と即答することこそが、薬が効いていない(=嘘がつける)ことの証明になる。
僕は呼吸を整え、表情筋を完全に固定した。
一片の迷いもなく、冷徹な事実として告げる。
「はい、嫌いです」
完璧だった。
声のトーン、タイミング、視線の揺らぎ。どれをとっても嘘を見抜く隙はない。
これで僕の勝利だ。さあ、どう切り返す――
「あ……」
先輩の表情が、凍りついた。
いつもの余裕たっぷりの笑みが消え、大きな瞳が驚きに見開かれる。
そして次の瞬間、その長い睫毛が悲しげに伏せられ、視線がふらりと足元に落ちた。
「…………そっ、か」
消え入りそうな声。
ほんの一瞬だけ浮かんだ、傷ついたような表情。
(――えっ?)
心臓が、嫌な音を立てた。
計算外だ。なぜそんな顔をする?
これは実験だ。論理的な検証作業だ。僕が先輩を嫌う合理的理由は存在しないことくらい、先輩だって分かっているはずだ。
なのに、どうして。
(……訂正しろ。早く)
脳内の警報が鳴り響く。
積み上げた論理的思考が、感情という名のノイズにかき消されていく。
僕は慌てて身を乗り出した。
「ち、違います! 今のは検証用のサンプルボイスです!」
「……サンプル?」
「そうです! 薬の効果を否定するために、あえて事実と異なる発言をしただけで、生物学的嫌悪感があるわけじゃなくて、その……!」
言葉が出ない。
ただ、あの悲しそうな顔を消したい一心で、僕は口走っていた。
「き、嫌いなわけ、ないじゃないですか……!」
部室に沈黙が落ちた。
自分の発言の意味を理解した瞬間、全身の血液が顔に集まるのが分かった。
顔を上げると、先輩がぽかんとしていた。
そして次の瞬間、その白い頬が、ふわりと桜色に染まっていく。
「……あは」
先輩が、口元を手で隠して笑った。
さっきまでの弱々しい雰囲気はどこへやら、その瞳にはいつもの悪戯っぽい光が戻っている。
「なんだー。やっぱり効いてるじゃん、自白剤」
「は……?」
「だって透くん、今、真っ赤な顔して本音言ったよ? 『嫌いなわけない』って」
「っ……! これは薬理作用ではなく、状況証拠の誤認を訂正するための……!」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる」
先輩はフラスコを回収すると、上機嫌で鼻歌を歌い始めた。
僕は机に突っ伏した。
完敗だ。
プラシーボ効果なんて関係ない。
僕は、「先輩を悲しませたくない」という、自分の軟弱な感情に負けたのだ。
「……次の実験は、もっと厳密な条件で行いますからね」
「ふふ、楽しみにしてるよ。私の可愛い被験者くん」
――もちろん、僕は知らない。
背中を向けた静久先輩が、胸元をギュッと掴んで、バクバクと暴れる心臓を落ち着かせていることを。
『……あんな真顔で「嫌い」なんて言われると思わなかった……。びっくりして泣くかと思った……』
そして、あの青い液体が、僕が好きなメーカーの『夏限定・ブルーハワイサイダー』だったことを。
わざわざ自販機を三つ回って探してきてくれたなんて、今の僕には知るよしもない。




