魔女先輩と不確定性の証明(Q.E.D.)
部室に、重苦しい沈黙が落ちた。
紫色の怪しげな照明の下、静久先輩と氷室会長が向かい合っている。
「……何を、根拠のないことを」
「根拠なんてないよ。でも、分かるの」
先輩の声は震えていなかった。
それは演技でも、台本でもない。ただ一人の人間としての、静かな確信に満ちていた。
「貴方は私と同じだから。……『正しいこと』を演じるのに必死で、本当の自分の守り方が分からなくなっちゃったんだよね」
氷室会長の瞳が揺れる。
鉄壁だった理性の仮面に、ピシリと亀裂が入ったようだった。
彼女は唇を噛み締め、何かを言い返そうとして――言葉を飲み込んだ。
「……非論理的です」
絞り出すような声だった。
「初対面のあなたに、私の何が分かるというのですか。データも、根拠もないのに」
「うん。でも、貴方のその顔は知ってる。……鏡で、何度も見た顔だから」
先輩がそっと手を伸ばし、テーブル越しに氷室会長の手に触れた。
氷室会長は手を引っ込めなかった。
その代わり、眼鏡の奥から、一雫の透明な液体がこぼれ落ちた。
――ポツリ。
涙が頬を伝い、机に落ちる音が、静寂の中に響いた。
「……っ」
氷室会長が慌てて顔を背け、手で目元を覆う。
その仕草は、冷徹な生徒会長ではなく、ただの疲れ切った一人の少女のものだった。
僕はバックヤードの陰で、モニター越しにその光景を見ていた。
キーボードを叩く手が止まる。
(……負けた)
僕は初めて、自分の論理が誰かを守れない場面を目の当たりにしていた。
僕が集めたデータも、統計も、心理学的なテクニックも、彼女の心の鎧を貫くことはできなかった。
それを成し遂げたのは、先輩の「共感」という、最も非論理的で、不確かな力だった。
――だが。
不思議と、悔しさはなかった。
(……いや、違う)
僕はモニターの中の先輩を見つめた。
あの堂々とした姿。迷いのない言葉。
それは、僕がここまで論理で土台を固め、不安を取り除いたからこそ、最後に彼女が「飛べた」のではないか。
論理は、魔法を否定するものじゃない。
魔法を一番高く、遠くへ飛ばすための発射台なのだ。
僕はインカムを外し、深く息を吐いた。
僕の役目は終わった。あとは、魔女に任せよう。
*
どれくらいの時間が経っただろうか。
氷室会長はハンカチで涙を拭い、眼鏡をかけ直した。
その表情は、いつもの冷徹さに戻っていたが、どこか憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「……不覚です。こんな非科学的な言葉に動かされるなんて」
「ふふ。魔女の呪いだよ」
先輩が悪戯っぽく微笑む。
「それで、満足度は?」
「……今日のところは、『保留』にしておきます」
氷室会長は立ち上がり、アンケート用紙を手に取った。
ペンを走らせる音がする。
「ですが、あなた方の活動が……少なくとも『無意味ではない』ことは認めます」
彼女はアンケート用紙を裏返しに置くと、一礼して部室を出て行った。
ドアが閉まる音が、終了の合図だった。
先輩がへなへなと椅子に崩れ落ちる。
「……終わったぁ……」
「お疲れ様でした、先輩」
僕はバックヤードから出て、先輩に歩み寄った。
先輩が顔を上げる。その目は潤んでいたが、達成感に輝いていた。
「透くん、見て! アンケート!」
僕は机の上の用紙を拾い上げた。
そこには、震える文字で一言だけ書かれていた。
『 80点 』
ギリギリの合格ライン。
でも、それはどんな満点よりも価値のある数字だった。
僕たちは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
*
文化祭が終わった後の屋上。
夕日が校庭をオレンジ色に染めていた。
遠くから後夜祭の音楽が聞こえてくる。
「……廃部、回避できたね」
先輩がフェンスに寄りかかり、風に髪をなびかせている。
「ええ。漆間と小箱の集客力も計算以上でした。最終的な満足度は92%。文句なしの勝利です」
「透くんのおかげだよ。……私、魔女になれてた?」
先輩が不安そうに聞いてくる。
僕は首を横に振った。
「いいえ」
「えっ……」
「魔女を超えていました」
僕は先輩の目を真っ直ぐ見て言った。
「予測不可能な『心』という変数を扱いこなす、最高のオカルトでした。……論理では説明がつかないくらいに」
先輩が目を丸くし、やがて顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「……バカ透。また変なこと言って」
「事実です」
先輩は口元を緩め、小さな声で言った。
「……じゃあ、これからもよろしくね。私の共犯者さん」
「ええ。観測を続けますよ」
僕は先輩の隣に立った。
手と手が、自然と触れ合う距離。
「……あなたの魔法が解ける、その日まで」
先輩がニヤリと笑う。
「解けるかな? 一生解けないかもよ?」
夕日の中、二人の影が一つに重なる。
オカルト部の魔女先輩と、理屈屋の僕。
バグだらけで、非論理的で、でも愛おしい日常は、これからも続いていく。
Q.E.D.(証明終了)。
(完)




