魔女先輩と反動形成
翌日の放課後。
僕は部室のドアの前で、五分間も立ち尽くしていた。
(……入れるわけがない)
脳内で昨日の記憶がリフレインする。
土砂降りの雨。相合傘。そして、僕が放った台詞。
――『分かりにくい嘘を解読するのが好きですよ』
「うわああああああああ!」
廊下で一人、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
何だあれ。何様のつもりだ。ポエムか? 酔ってたのか? 雨の音響効果による一時的な脳内麻薬の過剰分泌か?
科学的に分析しても、結論は一つ。**「死ぬほど恥ずかしい」**だ。
あんなことを言った翌日に、どんな顔をして先輩に会えばいい?
きっと先輩のことだ。「昨日の王子様モード、もう一回やってよ~」と徹底的にいじり倒してくるに決まっている。
逃げたい。でも、部活をサボれば余計に怪しまれる。
僕は深呼吸を三回し、決死の覚悟でドアノブに手をかけた。
ガチャリ。
「……失礼します」
「あ……お、おはよう、透くん」
部室には、静久先輩が一人でいた。
窓際の定位置。でも、今日は紅茶を飲んでいない。
僕が入ってきた瞬間、ビクリと肩を震わせ、読んでいた本をバッと持ち上げた。
「……おはようございます」
気まずい。
空気が重い。窒息しそうだ。
僕は逃げるように自分の席につき、鞄から参考書を取り出した。文字なんて一文字も頭に入ってこないけれど。
――チラッ。
視線を感じる。
顔を上げると、先輩が本の隙間からこちらを覗き込んでいた。
目が合うと、サッと本で顔を隠す。
「……先輩」
「は、はいっ!」
先輩が裏返った声を出した。
「本、逆さまですよ」
「えっ? あ、これは……そ、そう! 逆位置の魔術的解釈を研究していただけだから! 決して動揺しているわけでは……!」
先輩は慌てて本を戻そうとして、手から滑り落とし、それを拾おうとして机の角に頭をぶつけた。
「いった……!」
「大丈夫ですか」
明らかに様子がおかしい。
いつもの余裕はどこへ行った。魔女というより、ただのドジっ子だ。
「……そ、それで透くん。今日の実験だけど」
先輩が、おでこをさすりながら話題を変えてきた。
よかった。いつもの実験が始まるなら、僕も平常心を取り戻せる。
「今日は何を? また変なジュースですか?」
「ううん。今日は……その……『ポッキーゲーム』による心理的距離の測定とか……どうかな?」
時が止まった。
「……は?」
「あ、いや! 深い意味はなくて! ほら、棒状のお菓子を互いに齧ることで発生する緊張感のデータを……!」
先輩の顔がみるみる赤くなっていく。
テンパりすぎて、ハードルが高すぎる提案をしてしまったことに今気づいたらしい。
(いや、無理だろ)
今の僕たちの精神状態でそんなことをしたら、確実にどちらかが心停止する。
僕も顔が熱くなるのを感じながら、必死に拒絶した。
「き、却下です! 衛生面において非合理的です! それにデータの再現性がありません!」
「だ、だよね! 我也そう思う! 非合理的だよね!」
二人して早口で否定し合う。
なんだこれ。地獄か。
もう駄目だ。限界だ。
誰か、この空気を変えてくれ。誰でもいい。
バンッ!!
その時、救世主が現れた。
「マスタァァァーーー!! 大変です!!」
アルミホイル帽子を被った漆間が、ドアを蹴破る勢いで飛び込んできた。
「漆間!」
「漆間くん!」
僕と先輩の声がハモった。
漆間は驚いたように目を白黒させたが、すぐに真剣な顔に戻った。
「校庭に! 校庭にミステリーサークルが出現しました! ついに宇宙人がコンタクトを!」
「よし! 至急、現場検証に向かいましょう! これは高度な科学的調査が必要です!」
「行こう! すぐ行こう!」
僕たちは弾かれたように立ち上がり、漆間を置き去りにする勢いで、部室を飛び出した。
*
校庭には、ただのサッカーのセンターサークル(石灰の白線)があった。
漆間がその中心で「宇宙パワーを感じる……!」と瞑想しているのを、僕と先輩は少し離れたベンチから眺めていた。
外の風は涼しい。
部室の密室空間から解放され、ようやく心拍数が落ち着いてきた。
「……ふぅ」
ため息が出る。
横を見ると、先輩も小さく息をついていた。
「……透くん」
「はい」
「昨日のこと……忘れてって言ったけど」
ドキリとした。
先輩はグラウンドを見つめたまま、足をぶらぶらさせている。
「……まだ、覚えてる?」
「忘れました。メモリから完全に消去し、上書き保存しました」
僕は即答した。
あれは黒歴史だ。二度と思い出したくない。
「……そっか」
先輩の声が、少しだけ弾んだ気がした。
えっ、と横を見る。
先輩はこちらを見て、ニヤリと笑っていた。
いつもの、悪戯っぽい魔女の笑顔だ。
「残念。私はバックアップ取ってあるけどね」
先輩は悪戯っぽく微笑み、僕の隣に座り直した。
昨日より、ほんの数センチだけ、距離が近い気がした。
「ほら、見て透くん。漆間くんが鳩に囲まれてる」
「……平和ですね」
僕たちは並んで、夕焼けに染まる校庭を眺めた。
昨日のような劇的な展開はない。甘い言葉もない。
でも、この「言わなくても通じ合っている」沈黙が、今の僕たちには心地よかった。
忘れるわけがない。
あの雨の音も、体温も。
理屈屋の僕は、まだしばらく、この「もどかしい距離」を楽しめそうだ。




