魔女先輩と噂のノイズ
放課後の図書室は、静寂と喧騒がまだら模様に混ざり合っている。
僕は窓際の席で、借りていた『暗号理論の基礎』を読んでいた。
「ねえ、オカルト部の静久先輩って知ってる?」
本棚の裏から、ひそひそ話が聞こえてきた。
女子生徒のグループだ。知らない声。
「ああ、あの美人だけど変な人でしょ?」
「そうそう。なんか、人を呪ってるとか、嘘つきだとか聞いたよ」
「うわ、マジで? 関わらない方がいいよねー。イタイし」
クスクスという忍び笑い。
根拠のない噂話。確証バイアスに基づいた偏見。
普段の僕なら、「非科学的な雑音だ」と切り捨てて無視する場面だ。
――ガタッ。
僕は無意識に、椅子を乱暴に引いて立ち上がっていた。
女子たちがビクリとしてこちらを見る。
僕は彼女たちを一瞥することもなく、本を棚に戻して図書室を出た。
胸の奥が、焼け付くように不愉快だった。
イタイ? 変な人?
何も知らないくせに。あの人がどれだけ不器用で、どれだけ分かりにくい優しさを持っているか、1%も理解していないくせに。
外は、いつの間にか激しい雨が降っていた。
*
昇降口には、傘を忘れた生徒たちが溢れていた。
その人混みの外れ、柱の陰に、見慣れた長い黒髪があった。
静久先輩だ。
鞄を抱え、ぼんやりと雨を見つめている。
その背中は、どこか小さく、頼りなく見えた。
「あ、静久先輩だ」
後ろから、さっきの女子グループがやってきた。
彼女たちは先輩に気づくと、露骨にヒソヒソと話し始めた。
「うわ、こっち見てる。呪われるよw」
「目合わせちゃダメだって」
「なんかブツブツ言ってるよ、こわー」
聞こえているはずだ。
でも、先輩は振り返らない。何も言い返さない。
ただ俯いて、自嘲気味に口の端を歪めている。
「……まあ、魔女だからね。嫌われて当然か」
小さな呟きが、雨音に紛れて聞こえた。
その横顔を見て、僕の中で何かが弾けた。
理論も理屈もどうでもよくなった。
僕は早足で歩み寄り、先輩の隣に立った。
「先輩」
先輩が驚いて顔を上げる。
「透くん? まだ残ってたの?」
「ええ。……先輩、今の話ですが」
僕は、あえて声を張り上げた。
去り際の女子グループに聞こえるように。明確に、論理的に。
「統計的に見て、先輩に関わって不幸になった人間より、楽しそうにしている人間の方が多いです。現に、あの騒がしい部員たちを見れば明らかでしょう」
「え……透くん?」
「それに、先輩は嘘つきじゃありません」
女子たちが足を止め、こちらを振り返る。
僕は彼女たちを睨みつけるのではなく、ただ事実として告げた。
「……ただ、性格が少し捻くれてて、表現が分かりにくいだけです。それを『嘘』と呼ぶのは、解読能力の欠如です」
シン、と一瞬だけ空気が止まった。
女子たちは気まずそうに顔を見合わせ、逃げるように雨の中へ走っていった。
残されたのは、僕と先輩だけ。
激しい雨音が、周囲の雑音を全て洗い流していく。
僕は鞄から折り畳み傘を取り出し、バサリと広げた。
「入ってください。駅まで送ります」
「……透くん、怒ってる?」
先輩がおずおずと尋ねてくる。
「怒ってません。事実と異なる風評被害が不愉快なだけです」
「ふふ。……ありがと」
先輩が傘の下に入ってくる。
肩が触れ合う距離。
雨の冷たさとは対照的に、先輩の体温が伝わってくる。
しばらく無言で歩いた後、先輩がポツリと言った。
「私ね、昔からこうなんだ」
視線は足元の水たまりに向けられている。
「本当のこと言うのが怖くて、嘘ばっかりついて、変なキャラ演じて……そうやって人を遠ざけてきたの。……だから、あの子たちが正しいよ。私は、イタイ魔女だよ」
弱音だ。
いつも強気で、僕をからかってばかりいる先輩の、初めて見る素顔。
魔女の仮面の下にある、ただの臆病な女の子の顔。
僕は立ち止まった。
傘が揺れ、雨粒が弾ける。
「……僕は」
先輩の方を向く。
先輩も顔を上げ、僕を見る。その瞳が、雨のせいか少し潤んで見えた。
「僕は、その『分かりにくい嘘』を解読するのが好きですよ」
「え……?」
「難解な暗号ほど、解けた時の快感は大きいですから。……だから、今のままでいいんじゃないですか」
言ってしまってから、顔が熱くなるのを感じた。
なんてキザなセリフだ。科学的根拠も何もない。
先輩が目を丸くして、瞬きをした。
一度、二度。
やがて、その瞳が細められ、いつもの悪戯っぽい光が戻ってくる。
「……透くん」
「な、なんですか」
「今のセリフ、録音しておけばよかった」
先輩がニヤニヤしながら、僕の腕をツンと突く。
「えっ、今のなしで! 忘れてください! 一時的な感情の高ぶりによる失言です!」
「無理ー。一生忘れない呪いかけといた」
先輩は嬉しそうに笑い、僕の腕に自分の腕を絡めてきた。
「絶対、忘れないでね」
雨音にかき消されそうな、小さな声。
でも、その言葉は確かに僕の耳に届き、胸の奥深くに刻み込まれた。
相合傘の中、二人の距離は今までで一番近かった。




