先生、アイス食べに行こうって約束したよね
本作を手に取っていただき、ありがとうございます。
この物語は、「未練が形を持ったら、世界はどんなふうに揺らぐのか」
という問いから生まれました。
森、灯り、寿司屋、そして“角”。
バラバラに見える断片がひとつの想いへ収束していく、
私は、森の夜の気配を引きずっていた。
濃い霧が木々の間をさまよい、
足音さえ吸い込んでしまいそうな静けさが続く。
「昨日より狭くなってる…」
そんな薄闇の中、湖の縁で、
ひとつだけ異様な光景を見つけた。
それは、周囲のきのことは明らかに異質な、
藍の底に沈んだようなきのこだった。
笠はしっとりと濡れ、
根元は黒く煤けている。
まるで誰かの怨念が植物の形をとったかのような、
不気味な存在感。
家に戻ってその話をエルへすると、
彼女は思いのほか真剣な表情で耳を傾けた。
「触らないほうがいいよ。毒があるかもしれないし、
手がただれたら困るから」
「でも、あんなの今まで見たことない」
「環境が変わったのかもしれないね。
あるいは、冒険者がどこかから菌を持ち込んじゃったとか」
理由としてはあり得る。
そう思えたから、話題はそれで終わった。
私が森で目覚めてから、
森の奥で小さなすし屋を開いた。
意外と評判はいい。
木造の戸を勢いよく開けられると、
冒険者の軽い声が響く。
「おう、もうやってるかい?」
「いらっしゃい。今日は納豆巻きならあるよ」
「なんで納豆巻き“しか”ないんだよ」
「乾ぴょう巻きもあるよ?」
「そうじゃねえ! 魚はどこ行った!」
「仕入れてないから」
「納豆は?」
「それは仕入れてるよ」
冒険者からため息と、お腹の音が同時に漏れた。
「……まあ、こんな森の奥じゃ仕方ねえのか」
「悪口? 倍額にするけど?」
「違う。助かってるよ、お前の店がここにあるだけで」
話していると、次の冒険者が入ってくる。
「入り口でごちゃごちゃやってねぇで奥詰めてくれよ」
「ちっ、わかってるって」
エルが愛想よく冒険者達にお茶を注いで回った。
彼らを一通り相手にすると、
私は再び森に出て、歩数計を頼りに、
すし屋の位置を中心に五角形の地形を紙へ描き出す。
だが、計算に出た森の“中心”は、
この店よりも南東へずれていた。
もしそこに移動すれば、
この森が消えるその瞬間まで生き残れるかもしれない。
——そんな仮説が浮かぶ。
しかし同時に、
そんな価値があるのかという疑問も湧く。
すると、エルが言った。
「中心が店じゃなかったってことは、
その場所に“森を成り立たせてる何か”があるのかも」
確かにその可能性はある。
私はエルと別れて中心へ向かった。
森の真ん中にあったのは——骨だった。
白く、乾ききり、静かにそこへ横たわっている。
まるで誰かが眠る場所を探して彷徨い、
最後にここへたどり着いたように。
その瞬間、背筋が震えた。
ここには何かがいる。
何かが“残っている”。
次の瞬間、耳元で声がした。
「ようやく来たね」
振り返ると、そこに立っていたのは一人の少女だった。
透けるように白く、影のように静かで、
森の暗さと同化している。
もう一人の私。
「ここに連れてきたら、
穢れが祓えるって言ってたんじゃなかったの?」
少女のか細い声は、泣き出す直前のように震えていた。
少女は静かに私を見上げていた。
その瞳は深い闇の底を映しているようで、
光を拒むように沈んだ色をしていた。
「……祓ってくれるって、そう言ったよね」
問いかけられた言葉の意味がつかめず、
私は思わず息を呑む。
私は骨の前に膝をつき、
細い指でそっと触れた。
「これ、わたしの骨だよ」
あまりに自然な口調で言うものだから、
理解が追いつかなかった。
「どういう、こと……?」
「ねぇ、教えてあげようか。
あなたね、生きていたとき、ずっと病気で寝たきりだったの」
“私”は淡々と語り始めた。
「先生が助けに来てくれると信じて、
薬を飲んだら、きっと大丈夫になるって……
でも間に合わなかったの。
わたし、自分で死んじゃった」
自嘲のような、諦めのような微笑みが浮かぶ。
「服毒自殺だよ。迷惑だよね。本当に」
その言葉とは裏腹に、
彼女の声には痛みがほとんど残っていなかった。
むしろ、それ以上の感情が削れ落ちてしまったように思えた。
周囲の空気がひんやりと揺らぐ。
森が彼女の感情に反応しているようだった。
そして、木々の影からもうひとつの気配が現れる。
「説明は不要だ」
そう言って姿を見せたのは、
黒い外套をまとった“死神”のような少年だった。
きしむような低い声で続ける。
「彼女の魂と骨を揃えたのに、
まだ成仏していない理由を話せば十分だろう」
私は死神を睨む。
「……あなたは何もわかってない」
「わかっているとも。
お前は死に際に間に合わなかった主治医を逆恨みし、
取り憑き、殺そうとした。
未練を捨てられぬ穢れだ」
「違う!」
私の叫びが森を震わせる。
黒い木々がざわめき、空気がねじれた。
死神は一歩前へ出る。
「なら、証拠を出せ。あれを」
少女は顔をそむける。
「出したくない。だって、
あんた、森を戻してくれるって言ったじゃん。
約束してくれたのに……」
「出せ」
厳しい声音に、少女の肩が震えた。
数秒の沈黙。
やがて彼女は服の内側から、一本の角を取り出した。
それは、淡い光を帯びた大きな角。
——森から姿を消した“最後のヘラジカ”の角だった。
「……これがご神体」
死神が低くつぶやく。
私は角を胸に抱きしめる。
「ねぇ。これ、先生が最後に触ったものなんだよ」
その声はひどく弱く、ひどく優しかった。
「わたしね、ずっと怒ってたの。
先生が来てくれなかったって。
約束を破ったって。
でも……違ったんだね。
先生、来てくれたんだ。
わたしの死体を背負って
……ひとりで山に登って
……燃やしてくれたんだね」
死神の表情がわずかに歪んだ。
焦りだ。
彼は私を見下ろしながら言う。
「感謝?
そんな最期を迎えた者が感謝を抱くはずがない。
お前は孤独に死んだ。
誰にも看取られず、
両親に売られ、憎しみに満ちて……」
「ううん。わたし、ただ……会いたかっただけなんだ」
私は角の光に照らされながら、ゆっくりと顔を上げた。
「最後にね、ありがとうって言いたかった。
遅くても、ちゃんと来てくれたから」
その瞬間、森の奥から低い唸りが響いた。
世界そのものが、何か決定的な変化を始めたようだった。
森がうねった。
私の言葉に呼応するように、
木々が軋み、地面がかすかに震える。
枝葉の影が波のように揺れ、
何かがその奥で目を覚ます気配があった。
私は角を胸に抱いたまま立ち上がる。
まだ細い膝は震えている。
けれども、その足は確かに大地を踏みしめていた。
「ねぇ、死神さん」
森の揺れを背に、私は静かに言う。
「わたし、もう……怒ってないよ。
だって、ちゃんと来てくれたんだもん」
角からあふれる淡い光が、彼女の輪郭を照らした。
少女の姿が私と重なる。
温かい、どこか懐かしい光だった。
すると死神が叫ぶ。
「やめろ。その感情は危険だ!」
彼の声は震え、焦りと恐怖が混ざっていた。
「お前は怨霊だ。本来ならここに縛られ、
恨みを吐き続ける存在だ。
それが……その光を使って何をするつもりだ!」
私はゆっくりと森を見回す。
暗い木々の間から、かすかな泣き声や笑い声が聞こえてきた。
それはかつて迷い込み、死にきれず彷徨い、
森に囚われた“子どもたち”の声。
「この森って、わたしたちの未練でできてるんだね」
私の言葉に、闇がざわめいた。
「もう成仏するよ。でも……」
一歩、また一歩、中心の骨に戻りながら彼女はつぶやく。
「一人じゃ行かない。みんなも連れていく」
その宣言が森全体に響き渡った瞬間——
ヘラジカの角が砕け、森が叫んだ。
木々が裂け、地面が大きく波打ち、
そこかしこから影が溢れ出す。
泣き声。
怒号。
助けを求める声。
笑い声ですら混じっている。
死神の顔が青ざめた。
「待て! それは契約違反だ!
お前はここに留まり——」
「もう違うよ。穢れは……もう浄化されたの」
私は溢れた光を両手で掲げた。
光は、四方に爆ぜた。
青白い光が森一帯に流れ込み、
生者と死者の境界をやわらかく溶かしていく。
死神の身体が、光に触れた部分から砂のように崩れ始めた。
彼はよろめきながら後退し、声を荒げる。
「やめろ……やめろ!
俺は……“裁く側”なんだぞ……!」
「ううん」
私は静かにかぶりを振った。
「あなたも、縛られてただけなんだよね。わたしと同じ」
死神の黒い外套がぱらぱらと崩れ、
その下から少年の姿が現れる。
まだ幼さの残る顔。
強がりの奥に隠しきれない怯え。
「なんで……俺まで……」
「だって、あなたも苦しかったんでしょ。
わたしたちを見張って、縛って
……そんな役目、誰がやりたかったの?」
少年——かつて死神だった存在は、
口を開きかけて閉じた。
その瞳に、初めて“人”の色が宿る。
私は微笑む。
「君、まだ生きていたんだね。
現世に戻るといい」
穏やかで、温かく、そして自由な別れの言葉。
少年が何かを叫ぼうとした瞬間、
森に奔った光が天へ向かって一気に広がった。
闇を切り裂き、空を割り、本物の青空が露わになる。
森は音を立てて崩れ、消えていく。
残されたのは——
私の骨だけ。
森が崩れゆく音は、どこか遠くで鳴る波のように静かだった。
私は足元の骨をそっと抱き上げる。
驚くほど軽かった。
風に舞う羽根よりも軽く、
しかし確かに“私の生きた証”であった。
森の外へと続く道が、光の中でまっすぐ伸びている。
私は一歩踏み出した。
足に残っていた震えも、もう消えていた。
背後で、森が静かに息を引き取る。
木々が砂のように崩れ、影は光に溶け、声は風となって消えた。
長い間、死者の未練で構築された疑似世界は、
ついに終わりを迎えたのだ。
残ったのは、小さなすし屋だけだった。
扉を開けると、店の中にはいつもと同じ匂いが漂っていた。
酢飯と海苔の香り。奥で包丁の音が軽やかに響く。
「お帰り」
変わらぬエルの軽い声が返ってきた。
私はカウンターの席に腰を下ろすと、
隣に骨を丁寧に置いた。
「納豆巻き、ありますか?」
「あるよ。今日は特別に……マグロもある」
「あなたみたいに上手く出来るかわからないけど」
少し照れたような声だった。
私はふっと笑った。
「じゃあ、それで」
エルはてきぱきと手を動かしながら、ちらりと骨を見る。
「それ、見つけたの?」
「うん。わたしの大事な人が持って来てくれたの」
「そっか」
余計なことは聞かない。それがエルの良さだった。
やがて皿が目の前に置かれる。
つやつやとした赤い身は、
森の闇とはまるで別の世界の色をしていた。
私は箸を取り、そっとマグロを口に運ぶ。
──ああ、こんな味だったんだ。
体があったころ、ほんの少しだけ口にした記憶がよみがえる。
冷たくて柔らかで、少し甘い。
「……おいしい」
「でしょ?
私も遊んでいたわけじゃないんだよ」
エルは得意げに笑う。
私は隣の骨へ目を向けた。
「先生、聞こえてる?」
もちろん返事はない。
しかし、私は微笑んだ。
「ちゃんと言えたよ。死ぬ前に“ありがとう”って」
その瞬間、骨がふっと軽く揺れた。
風に触れたように。
粉雪のように光が舞い、骨はゆっくりと崩れていく。
私は手を伸ばし、その光を受け止めた。
暖かい。
祈りにも似た柔らかいぬくもりだった。
「そっか……行くんだね」
涙は出なかった。
ただ、心の奥に澄んだ湖のような静けさが満ちていく。
光は天へと昇り、やがて姿を消した。
エルが静かに言う。
「成仏、したの?」
「うん。やっと」
私は深く息を吸い、外へ目を向けた。
朝日が差し込んでいる。
森はもうない。闇も、未練も、死神すらも。
残ったのは、澄みきった空だけだった。
私は席を立ち、暖かい朝の空気の中へ踏み出した。
「……行こ。次は、アイスを食べに」
小さなすし屋の戸が、軽やかに閉まる。
新しい一日が始まった。
静かな怖さと、静かな優しさ。
どちらも、読んでくださる方の心にそっと触れられれば幸いです。




