第92話:二つの優しさ
一人きりになった執務室で、僕はどれくらいの時間そうしていただろうか。
地図と報告書の数字を睨みつけ、勝算のない戦いのシミュレーションを頭の中で何度も何度も繰り返す。そのたびに思考は袋小路に行き詰まり、重い疲労感だけが心を蝕んでいく。
指導者としての重圧と、民の命を預かる責任。その巨大なプレッシャーが、僕の心を少しずつ、しかし確実にすり潰していくのが分かった。
コン、コン。
その時、静寂を破るように控えめなノックの音が響いた。
僕は返事をする気力もなく、ただ黙ってドアを見つめる。
「……リオさん。入りますね」
優しい声と共に、そっとドアが開いた。
そこに立っていたのは、お盆を手にしたミリアだった。お盆の上には湯気の立つスープ皿が乗っている。
彼女は僕の憔悴しきった顔を見て、胸を痛めたように眉を寄せた。
「やっぱり、ここにいたんですね。セブンさんから聞いて……。少し、お休みになった方が……」
「……」
僕は何も答えられなかった。
どんな言葉も、今の僕には空虚に響くだけだった。
そんな僕の様子を見て、ミリアは何かを察したようにそれ以上は何も言わなかった。
彼女は静かに僕のそばに歩み寄ると、机の上にそっとスープ皿を置く。
「何も、言わなくていいです。きっと、一人で色々なことを背負って、考えていらっしゃるのだと思いますから」
彼女は僕の隣の椅子に静かに腰掛けると、ただ優しく微笑んだ。
「でも、これだけは飲んでください。身体が冷えると、心も冷えてしまいますから」
差し出されたスープは、彼女がよく作ってくれる野菜がたっぷり入ったコンソメスープだった。
その温かい湯気と優しい香りが、張り詰めていた僕の心をほんの少しだけ解きほぐしていく。
僕は震える手でスプーンを握り、スープを一口、口に運んだ。
野菜の優しい甘みが、身体中にじんわりと染み渡っていく。
それはただのスープではなかった。僕の身体を、そして心を気遣ってくれる彼女の優しさが、溶け込んでいた。
「……ありがとう、ミリア。温かいよ」
やっとのことで絞り出した僕の言葉に、ミリアは嬉しそうに、そして少しだけ寂しそうに微笑んだ。
その時だった。
それまで閉まっていた執務室のドアが静かに開いた。
そこに立っていたのは、やはりセブンだった。どうやら僕に一人にしてくれと言われた後も、ずっとドアの外で待機していたらしい。
彼女は僕とミリア、そして空になったスープ皿を順に見ると、手にした端末に何かを記録し始めた。
「……感情的なサポートは、論理的観点からは非効率な行動です。しかし、マスターの心拍数及びストレスレベルの数値が先ほどよりも安定したことを確認。ミリアの提供したスープがマスターの精神的安定に貢献したと判断。今後の参考データとして記録します」
相変わらずの分析口調。けれど、その声にはどこか安堵したような響きが含まれているように感じた。
セブンは分析を終えると、どこからか取り出した肩掛けをそっと僕の肩にかけた。
「夜は冷えます。これ以上の体温低下は免疫力の低下、ひいては思考能力の低下に繋がります。不合理です」
ぶっきらぼうな口調。しかし、その行動は紛れもない優しさだった。
ミリアの、心に寄り添う温かい優しさ。
セブンの、論理に基づいた的確な優しさ。
二つの異なる、けれどどちらもかけがえのない優しさが、孤独と重圧で凍てついていた僕の心をゆっくりと溶かしていく。
僕は肩にかけられた肩掛けの温かさを感じながら、二人に向かって今度ははっきりと微笑んでみせた。
「ありがとう、二人とも。……僕は、一人じゃないんだな」
その言葉は、僕自身に言い聞かせるためのものでもあった。
そうだ。僕には、こんなにも僕のことを想ってくれる仲間がいる。
一人で全てを背負う必要なんて、なかったんだ。
張り詰めていた心の糸が、少しだけ緩むのを感じた。
戦いへの恐怖が消えたわけではない。けれど、共に立ち向かってくれる仲間がいる。その事実が、僕に再び前を向く力を与えてくれた。




