第91話:王の孤独
民の代表者たちが去った後、執務室には再び静寂が戻ってきた。
しかし、その静寂は先ほどまでのものとは全く異質だった。民の熱気と覚悟がまだ部屋の隅々にまで満ちているようで、僕は一人、その中心で立ち尽くしていた。
「……はは」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
守るべきだと思っていた民に、逆に「共に戦う」という覚悟を突きつけられた。
嬉しいはずなのに。誇らしいはずなのに。僕の心臓は、まるで氷水に浸されたかのように冷たく、重かった。
僕はおぼつかない足取りで執務机に向かうと、一枚の大きな地図を広げた。
聖獣の郷と、アークライト神聖王国の全土が描かれた地図だ。
僕たちの郷、聖獣の郷は嘆きの荒野の片隅にある、まだ生まれたばかりの小さな点に過ぎない。
対して、アークライト神聖王国は大陸中央の広大な土地を支配する巨大な国家だ。
僕はリアムがまとめてくれた双方の戦力に関する報告書に目を通す。
聖獣の郷の総人口は、約五千人。そのうち戦力として数えられるのは、ドワーフの戦士団や獣人族の若者たちを含めても、せいぜい五百人程度。
対する王国は、総人口百万人以上。正規の騎士団だけでも一万人を超え、いざとなれば各地の領主から兵を徴収することもできる。その数は、五万、いや十万に達するかもしれない。
戦力差は、百倍以上。
その絶望的な数字が、僕の頭を鈍器で殴られたかのようにぐらぐらと揺さぶる。
「……どうすれば、勝てるっていうんだ」
頭を抱え、椅子に深く沈み込む。
勝算など、どこにもない。籠城しようにもいずれ兵糧は尽きる。奇襲を仕掛けようにも相手は大軍だ。こちらの動きなど、全て読まれてしまうだろう。
僕はぎゅっと目を閉じた。
脳裏に、これまでの出来事が次々と蘇る。
役立たずの【土地鑑定】スキルを理由に、父や兄たちから蔑まれこの荒野に追放された日。
人間不信に陥っていたハクと出会い、初めて主と認められた日。
迫害されていたミリアたち兎獣人族を匿い、最初の仲間ができた日。
グルドさんやリアムと出会い、村が大きく発展していった日々。
兄バルドの侵攻から、必死に皆を守った戦い。
一つ一つは、小さな歩みだった。
ただ、目の前の人を助けたい。仲間と共に、平和に暮らしたい。その一心で必死に走ってきた。
気づけば、僕の後ろには僕を信じ、慕ってくれるたくさんの民がいた。
「守るものが……大きくなりすぎた……」
僕一人の問題だったなら、どんなによかっただろう。
僕一人が犠牲になれば済む話なら、喜んでこの命を差し出す。
けれど、今は違う。
僕の決断一つで、五千人の民の命運が左右される。
僕が間違えれば、僕を信じてくれた全ての人々を死の淵へと追いやることになる。
その重圧が巨大な岩となって、僕の肩にのしかかる。
息が、できない。
「――マスター」
不意に、凛とした声が響いた。
いつの間にか、セブンが僕の隣に立っていた。
「マスターのストレスレベルが、危険域に達しています。心拍数、血圧ともに異常値を検出。思考の強制シャットダウン、及び休息を強く推奨します」
彼女はいつも通りの無機質な声で、僕の心身の異常を的確に分析する。
そして、僕をこの苦しみから解放しようと手を差し伸べてくれた。
しかし。
「……少し、一人にしてくれないか」
僕はか細い声で、そう呟いていた。
初めて、彼女の申し出を明確に断った。
「……」
セブンは何も言わなかった。
ただ、そのアメジストの瞳を悲しそうに揺らめかせたように見えた。
やがて彼女は静かに一礼すると、音もなく部屋から出ていった。
再び、一人になる。
王になることを、民の想いを受け止めることを決めた、その夜。
僕は、国家の指導者というものがこれほどまでに孤独なものであることを、生まれて初めて痛いほどに思い知らされていた。




