第9話:奇跡の農地
兎獣人族の少女ミリアとその一族が、僕の村の最初の住民となってから、数日が過ぎた。
彼らを迎え入れたことで、荒野での孤独な生活は一変した。あちこちから子供たちのはしゃぐ声が聞こえ、丸太小屋の周りには、活気という名の温かい空気が流れ始めた。
僕がまず取り掛かったのは、彼らが安心して暮らせる住居の建設だ。ドワーフでもない僕に、立派な家を建てる技術はない。だが幸い、この土地には粘土質の土壌が豊富にあった。
「この土を使えば、日干しレンガが作れるはずだ。それを積み上げて、簡単な家を作ろう」
僕の提案に、獣人たちは目を輝かせた。彼らは僕が【土地鑑定】で最適な土壌の場所を特定し、ハクがその怪力で土を掘り起こす様に、驚きと尊敬の念を抱いているようだった。
男たちは僕の指導のもと、慣れない手つきでレンガ作りに励み、女たちは子供たちの面倒を見ながら、食料となる植物の採集に精を出した。ミリアは、その両方を取り仕切る頼もしいリーダーだった。
そして住居の建設と並行して、僕たちはこの土地の未来を賭けた壮大なプロジェクトを開始した。すなわち、農業である。
長老から聞いた『月の伝承農法』。それは、月の満ち欠けが作物の成長に与える影響を体系化した、獣人族に古くから伝わる秘伝の知識だった。
「月の光が満ちる時、大地もまたその力を増します。その時に種を蒔けば、作物は月の力を吸い込み、力強く育つのです」
ミリアはそう言って、一族に伝わる古い石板を見せてくれた。そこには、月の周期とそれぞれの時期に適した作物の種類が、象形文字のようなものでびっしりと刻まれている。
それは、科学的根拠に基づかない経験と伝承の産物。だが、僕はその知識を決して軽んじたりはしなかった。
そして僕の【土地鑑定】スキルと彼女たちの伝承農法が、奇跡的な化学反応を起こすことになる。
「ミリア、この区画の土壌はカリウムとリンが少し不足している。代わりに鉄分が豊富だ。鑑定結果によれば、根菜類、特に赤いカブのような作物が最もよく育つはずだ」
「なるほど……。では、次の新月の日にその赤いカブの種を蒔きましょう。新月は、根に栄養が集中する時期ですから」
「こちらの区画は、水はけが非常に良い。だが、少し乾燥しすぎているかもしれない。葉物野菜を育てるなら、僕が鑑定で特定したあの地下水脈から、細い水路を引いてくる必要があるな」
「でしたら、満月に向かう時期に葉物野菜の種を。満月は、葉や茎の成長を促す力があります。水路さえあれば、きっと青々とした葉が茂るはずです」
僕の科学的とも言える土壌分析と、ミリアの経験則に基づいた天文学的な知識。
一見、相容れないように思える二つの知識が、互いの足りない部分を補い合い、完璧に噛み合ったのだ。
僕たちは広大な荒野を、鑑定結果に基づいてチェス盤のように細かく区画整理した。そして、それぞれの区画に最も適した作物を、最も適した時期に植えていく。
獣人たちの勤勉な働きぶりも、開拓を大きく後押しした。彼らは故郷を追われ、明日食べるものにも困っていたのだ。自分たちの手で自分たちの食料を生み出せるという喜びが、彼らの全身に活力をみなぎらせていた。
水路が引かれ、畑が耕され、種が蒔かれる。
ハクがその巨体で畑を荒らす魔物を追い払い、時には雨雲を呼んで、大地に恵みの雨を降らせた。
僕の鑑定、ミリアの知識、獣人たちの労働力、そしてハクの力。
その全てが一つになった時、嘆きの荒野は信じられない速さでその姿を変えていった。
そして最初の種を蒔いてからわずか一月後、奇跡は現実のものとなった。
「……嘘でしょう……?」
ミリアが、目の前に広がる光景を信じられないといった様子で、呆然と見つめている。
彼女だけではない。そこにいた全ての獣人たちが、言葉を失っていた。
かつて赤茶けた不毛の大地が広がっていた場所は、今、見渡す限りの緑豊かな農地へと生まれ変わっていたのだ。
人の背丈ほどに育った穀物の穂が風に吹かれて金色の波となり、畑には赤や緑の色とりどりの野菜が、これでもかというほどたわわに実っている。
瘴気の匂いは完全に消え失せ、代わりに、土と緑の生命力に満ちた匂いが胸いっぱいに広がった。
「……穫れた。本当に、穫れたんだ……!」
一人の獣人がそう叫んだのをきっかけに、静寂は歓喜の渦へと変わった。
「うおおおお! やったぞー!」
「これで、もう飢えなくて済むんだ……!」
彼らは抱き合い、肩を叩き合い、涙を流して初めての収穫を喜んだ。
その中には、ミリアの姿もあった。リーダーとして常に気丈に振る舞っていた彼女が、子供のように声を上げて泣きじゃくっている。
僕はその光景を、ただ静かに微笑みながら見つめていた。
その日の夜は、盛大な収穫祭が開かれた。
焚き火を囲み、採れたての野菜をふんだんに使ったスープと、香ばしく焼かれたパンを皆で分かち合う。歌い、踊り、語り合う。そこには、種族も身分も何も関係なかった。ただ、共に苦労し、共に喜びを分かち合う一つの家族がいるだけだった。
宴が一段落した頃、僕は一人、少し離れた場所で夜空を見上げていた。
するとミリアが、そっと僕の隣にやってきて腰を下ろした。
「リオさん。本当に……ありがとうございました」
「僕じゃない。君たちみんなの力だよ」
僕がそう言うと、彼女はふふっとはにかむように笑った。
そして、ぽつりと呟く。
「……父も、こんな光景を、見たかったんだと思います」
彼女は、亡き父の思い出を少しだけ僕に話してくれた。
一族を逃がすためにたった一人で追っ手の盾となり、命を落とした勇敢なリーダーだった父のこと。その父の遺志を継ぎ、リーダーとなったことの重圧と孤独を。
「でも、もう一人じゃありません。私には、リオさんと皆がいますから」
そう言って僕を見つめる彼女の赤い瞳は、焚き火の光を反射して、キラキラと輝いていた。
その瞳の美しさに、僕は少しだけ心臓がどきりと音を立てたのを感じた。