第88話:鎖の選択
執務室の空気は張り詰めた弦のように、今にも切れそうなほどの緊張に満ちていた。
マルクス殿が差し出した国王勅令。その一枚の羊皮紙が、ずっしりと重い鉄塊のように感じられる。
僕はそれを受け取らず、ただ彼に促した。
「……読み上げてください」
僕の静かな声に、マルクス殿は一度固く目を閉じた。
そして、意を決したように震える手で羊皮紙を広げ、乾いた声でその内容を読み上げ始めた。
「――国王陛下より、嘆きの荒野の開拓民、及びその指導者リオ・アークライトに勅令を下す」
その場にいる誰もが、固唾を飲んで彼の言葉に耳を傾ける。
「一つ。貴殿らのこれまでの、王国の威光を顧みぬ身勝手な領地運営に対し、その罪を償うための『懲罰的重税』を課す。今後一年間、聖獣の郷で生産される全鉱物資源の七割、及び全農作物の五割を、王国に無償で献上すること」
「なっ……!?」
最初に声を上げたのは、僕の後ろに控えていたリアムだった。
商人である彼にとって、その要求がいかに無茶で悪意に満ちたものであるかが即座に理解できたのだろう。その顔からはいつも余裕のある笑みが消え、血の気が引いていた。
「無茶苦茶だ……。そんなことをすれば、この郷の経済は一年も経たずに破綻する。我々が冬を越すための備蓄すら、残らない計算だぞ……!」
リアムの言う通りだった。
それは税ではない。富の収奪だ。僕たちが必死に築き上げてきたものを根こそぎ奪い去ろうという、明確な敵意だった。
しかし、本当の絶望はその次に待っていた。
マルクス殿は苦渋に顔を歪めながら、二つ目の要求を読み上げる。
「二つ。王国の防衛力強化のため、聖獣の郷に在住する15歳から25歳までの若者のうち、3分の1を『徴兵』し王国軍に編入させる。兵役の期間は、最短で10年とする」
「ふざけるなあっ!!」
マルクス殿の言葉が終わるか終わらないかのうちに、轟音のような怒声が執務室に響き渡った。
声の主は、いつの間にか会議室に駆けつけていたグルドさんだった。彼はわなわなと拳を震わせ、その顔を怒りで真っ赤に染めている。
「我らの子らを、ドワーフの未来を、てめえらの都合で戦の駒にしてたまるか! それだけは断じて許さんぞ!」
グルドさんの怒りはもっともだった。
ドワーフにとって、子は宝だ。その宝を理由もなく奪われることなど、到底受け入れられるはずがない。
それは獣人族にとっても、エルフにとっても同じことだった。
「……ひどい……」
ミリアが震える声で呟いた。
「それは、徴兵なんかじゃありません……。事実上の人質です! 私たちの未来を奪って、王国に逆らえなくするための……卑劣な鎖です!」
ミリアの叫びが、この要求の本質を的確に突いていた。
重税で経済的な自由を奪い、徴兵で未来への希望を奪う。
それは僕たちに「王国の奴隷として生きる」か、「全てを失って滅びる」かの二択を迫る、あまりにも残酷な最後通牒だった。
僕は激昂する仲間たちをなだめるように、静かに手を上げた。
そして、目の前の苦悩する使者に静かに問いかける。
「……なぜ、このような要求を? 我々は、王国に何か害をなしたわけではないはずだ」
僕の問いに、マルクス殿は力なく首を振った。
「害をなしたからではない。むしろ、逆だ。君たちは何もない荒野から、我々が無視できないほどの富と可能性を生み出してしまった。……宰相閣下は、こう仰せだった。『豊かになりすぎたのだ、君たちは』と」
その言葉は、冷たい刃のように僕の胸に突き刺さった。
僕たちが良かれと思ってやってきたこと、民が笑って暮らせる国を作ろうとしたこと、その全てが彼らにとっては「罪」だというのか。
理不尽だ。あまりにも、理不尽すぎる。
マルクス殿は立ち上がると、僕に向かって深く、深く頭を下げた。
「……勅令は伝えた。返答は、三日後に聞く。……頼む、リオ殿。どうか、どうか賢明な判断を……」
その声は王国の使者としてではなく、一人の人間としての悲痛な叫びのように聞こえた。
彼は僕たちに「賢明な判断」、つまりこの屈辱的な要求を呑むことを望んでいるのだ。そうしなければ、僕たちが軍事的に蹂躙され、全てを失うことを知っているから。
彼の背中が執務室のドアの向こうに消えても、僕たちは誰一人言葉を発することができなかった。
聖獣の郷の未来を縛る、二つの重い鎖。
僕たちは、究極の選択を迫られていた。




