第87話:苦悩の使者、再び
三日間にわたるミズガルズ祭は、人々の心に温かい光と数えきれないほどの思い出を残して幕を閉じた。
祭りの喧騒が嘘のように静まり返った夜。僕は山積した報告書を片付けるため、一人執務室に残っていた。
祭りの後片付けは民たちが自主的に、そして驚くほど手際よく行ってくれた。
その報告書を読みながら僕は改めてこの郷の民の素晴らしさを実感し、自然と頬が緩む。
コン、コン。
不意に、執務室のドアがノックされた。
ミリアか、あるいはセブンだろうか。そう思いながら「どうぞ」と声をかける。
しかし、ドアを開けて入ってきたのは意外な人物だった。
エルフの商人リアム。そして、彼の後ろに続くようにして現れた見覚えのある顔。
「……マルクス殿?」
そこに立っていたのは、かつて王国の調査官としてこの地を訪れた文官、マルクスその人だった。
しかし、彼の様子は以前会った時とはまるで違っていた。
背筋は伸びているもののその顔は青白く、目の下には深い隈が刻まれている。まるで何日も眠らずに悩み続けていたかのような、苦悩に満ちた表情だった。
「夜分にすまない、リオ殿。王国の使者として、お伝えしたいことがある」
彼のただならぬ様子に、僕はすぐさまリアムにミリアを呼んでくるよう頼んだ。
やがて慌てて駆けつけたミリアが執務室に入ってくる。彼女もマルクスのやつれた姿を見て、驚きに目を見開いていた。
僕とミリアがソファに腰掛け、マルクスと向かい合う。
リアムは僕の後ろに立ち、セブンはいつものように僕の隣に控えている。
重い沈黙の中、最初に口を開いたのはマルクスだった。
「……まずは、建国祭の成功、お祝い申し上げる。道中、見てきたが……見事な発展ぶりだ。活気に満ちた街並み、民の幸福そうな顔。正直に言って、羨ましい限りだよ」
その言葉には偽りのない称賛と、そしてどこか諦めのような響きがあった。
以前会った時、彼は僕たちの村の価値を正確に評価し、その未来に期待を寄せてくれていた。そんな彼が、なぜこれほどまでに追い詰められた顔をしているのか。
「お褒めにあずかり光栄です。マルクス殿。それで、本日はどのようなご用件で?」
僕が尋ねると、マルクスはふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
そして、先ほどまでの個人的な感情を全て消し去り、冷たい「使者」の顔に戻って僕たちに告げた。
「単刀直入に言おう。リオ殿。君たちの国は、豊かになりすぎた。……それ故に、王国にとって危険な存在になったのだ」
「危険な、存在……?」
ミリアが息を呑む。
マルクスの言葉は、僕たちが心のどこかで恐れていた、しかし認めたくなかった現実を容赦なく突きつけていた。
僕たちの成功が、僕たちの平和な暮らしが、皮肉にも王国の猜疑心と支配欲を煽ってしまったのだ。
「先日、リアム殿の商会を通じて聖獣の郷の産物が王都にもたらされた。そのどれもが、王国の技術水準を遥かに凌駕するものだった。宰相ダリウス閣下は、君たちの存在を王国の秩序を乱す『病巣』と判断された」
「病巣……。我々はただ、この地で静かに暮らしたいだけだというのに」
僕の呟きは、あまりにも虚しく響いた。
静かに暮らすことすら、彼らは許さないというのか。
マルクスは苦渋に満ちた顔で、ゆっくりと懐に手を入れた。
そして、国王の紋章が刻まれた一通の羊皮紙を取り出す。
「これは、国王陛下からの勅令である」
その声は重く、冷たかった。
しかし、国王勅令と書かれたその羊皮紙を僕に差し出す彼の手が、屈辱と無念さに微かに震えていることに、僕だけは気づいていた。
彼は、僕たちを陥れるためにここに来たのではない。
彼自身もまた、王国の非情な決定の犠牲者なのだ。
僕は差し出された勅令を受け取ることなく、ただじっと彼の苦悩に満ちた瞳を見つめ返した。




