第8話:差し伸べられた手
ミリアの悲痛な願いが、乾いた荒野に響き渡る。
深く頭を下げたままの彼女の肩は、かすかに震えていた。信じたい、でも信じられない。希望と恐怖の間で揺れ動く心が、その姿から痛いほど伝わってくる。
彼女の後ろでは、三十人ほどの兎獣人たちが固唾をのんで僕の答えを待っていた。彼らの瞳には、長年の迫害によって刻み込まれた、人間への深い不信感が宿っている。
どんな言葉を尽くせば、彼らの心を動かせるだろうか。
いや、言葉だけでは駄目だ。彼らが求めているのは、甘い言葉ではなく確かな証なのだから。
僕はゆっくりと、口を開いた。
「……残念だけど、それはできない」
僕の静かな声に、ミリアの肩がびくりと揺れた。彼女はゆっくりと顔を上げる。その赤い瞳は、まだ不安と警戒心に濡れていた。
「だって僕は、君たちを奴隷なんかにするつもりはないから」
僕の意外な言葉に、ミリアの瞳がわずかに見開かれた。
僕は一度言葉を切ると、彼女の、そして彼女の後ろにいる獣人たち全員の顔をまっすぐに見つめた。
「僕は君たちと、対等な契約を結びたいんだ」
「……契約?」
ミリアが、訝しげに眉をひそめる。
「そう、契約だ。君たちはその長い耳で、僕よりも遠くの音を聞き、危険を察知できるだろう。その鼻で、僕にはわからない食べられる植物の匂いを嗅ぎ分けることもできるかもしれない。何より、君たちには僕が持っていない農業の知識と経験があるはずだ」
僕は自分の足元の、豊かな黒土を指差した。
「この土地には、可能性がある。僕はこの荒野を、緑豊かな農地に変えたいんだ。そのためには、君たちの力が必要だ。どうか僕に、君たちの知識と知恵を貸してほしい」
そこまで一気に話すと、僕は彼女に僕が差し出せるものを提示した。
「その代わり、僕は君たちに安全な住処と豊かな食料を約束する。この土地で得られた作物は、公平に分配する。誰かに搾取されることも、理不尽に奪われることももうない。ここでなら、君たちは安心して暮らすことができる」
僕の提案に、獣人たちの間にどよめきが広がった。
「……なんだって?」
「俺たちと……対等な契約だと……?」
彼らは人間から、このような提案をされたことなど一度もなかったのだろう。
それは支配者と被支配者の関係ではない。共に村を作り上げていく、仲間としての提案だった。
ミリアは唇を固く結び、何も言わずに僕の顔をじっと見つめている。その赤い瞳は、激しく揺れ動いていた。僕の言葉が、彼女の心を確かに揺さぶっている証拠だった。
だが、長年植え付けられた不信感は、そう簡単には消えない。
彼女が最後の一歩をどうしても踏み出せずにいるのが、僕にもわかった。
その張り詰めた沈黙を破ったのは、僕の肩の上で今まで静かに成り行きを見守っていた、ハクだった。
ハクは僕の肩からひらりと飛び降りると、地面に着地した瞬間、まばゆい光と共に巨大な聖獣の姿へと戻った。
「なっ……!?」
突然目の前に現れた山のような白虎の姿に、獣人たちは悲鳴を上げて後ずさる。
ミリアも腰に下げたナイフに手をかけ、咄嗟に臨戦態勢をとった。
だが、ハクは彼らに敵意を見せることはなかった。
ただその威厳に満ちた金色の瞳で、獣人たちを静かに見下ろしている。やがて僕の隣にそっと寄り添うように座ると、僕の頬にその巨大な頭を優しくすり寄せたのだ。
その光景が、何を意味するのか。
獣人たちには、すぐに理解できたようだった。
「聖獣様が……あの人間に、懐いておられる……?」
「まさか……主と認めておられるというのか……」
獣人たちの間で、驚愕と畏敬の声が上がる。
彼らにとって自然の化身である聖獣は、絶対的な存在だ。その聖獣が認めた人間に、悪い者がいるはずがない。それは彼らの揺るぎない価値観であり、信仰だった。
ハクは、僕にしか聞こえないテレパシーでそっと語りかけてきた。
『……これでよかろう? 主よ』
『……ありがとう、ハク。助かったよ』
僕はハクの首筋を、優しく撫でてやった。
その僕とハクの親密なやり取りが、ミリアの心を決める最後の決め手となったようだった。
彼女はナイフから手を離すと、深く、深く息を吸った。
そして、覚悟を決めた顔で僕の前に進み出る。
「……わかりました。あなたの言葉を、そして聖獣様の選択を信じます」
そう言うと、ミリアは僕の前にすっと右手を差し出した。
対等な者同士が契約を結ぶ際の、獣人族の流儀だった。
僕はその小さな手を、力強く握り返した。
「ようこそ、僕の村へ。ミリア」
こうして僕の村に、初めての住民が誕生した。
それは、この荒野に新しい共同体の息吹が芽生えた、記念すべき瞬間だった。
ミリアの後ろから、一人の老婆がおずおずと僕の前に進み出てきた。
「領主様……。わ、私どもには一族に古くから伝わる『月の伝承農法』というものがございます。もし領主様のお力と我らの伝承を合わせれば、この嘆きの荒野も、きっと緑豊かな大地に変えることができるやもしれませぬ……」
月の伝承農法。
その言葉の響きに、僕は新たな可能性の扉が開かれるのを、確かに感じていた。