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第61話:王都の風、故郷の土


 王都の分厚い城壁が遥か後方へと過ぎ去る。

 街道を覆う硬い石畳が柔らかな土の道へと変わる頃、僕の心を縛り付けていた見えない枷が少しだけ緩むのを感じた。


「ケッ、好かねえな、あの街は。土の匂いより、香水と陰謀の匂いしかしやがらねえ」


 隣を歩む馬の上で、グルドさんが大きく息を吐き出す。

 その言葉に、後方を随行していたリアムもやれやれと肩をすくめた。


「同感ですね。一杯の茶を飲むのに相手の腹を十も二十も探らねばならない。あんな場所で商売をしろと言われたら、私は一週間で胃に穴が空きますよ」


 二人の軽口に、僕は小さく笑みを返した。

 彼らでさえそうなのだ。僕が感じていた息苦しさは、決して気のせいではなかったのだろう。


 一週間にわたる王都での滞在は、僕の心を確実に摩耗させていた。

 昼夜を問わず行われる貴族たちとの腹の探り合い。幾重にも張り巡らされた権力という名の蜘蛛の巣。

 そのすべてが、大地と共に生きる僕の性分とは根本的に相容れないものだった。


 そして、ようやくたどり着いた故郷の入り口。

 僕たちの姿を最初に見つけたのは、見張り台に立っていた兎獣人族の青年だった。


「――帰還だ! リオ様がお戻りになったぞ!」


 その声が号令だった。

 畑仕事をしていた者、家畜の世話をしていた者、家で繕い物をしていた者。村のあちこちから人々が駆け寄ってくる。


「――おかえりなさい、リオさん!」


 その輪の中心から、ひときわ明るい声と共に現れたのはミリアだった。

 彼女の亜麻色の髪が故郷の風に柔らかく揺れている。

 その満面の笑みを見た瞬間、僕の心を満たしていた澱のような疲労がすっと溶けていくのを感じた。


「リオ様! ご無事のご帰還、何よりです!」

「王都の偉いさんたちに、俺たちの村のすごさを見せつけてくださいましたな!」

「長旅、お疲れ様でした。ささ、早く中へ!」

「「リオお兄ちゃん、おかえりー!」」


 村人たちの温かい歓迎の言葉と、僕の足に勢いよく飛びついてくるカカンとココンの重み。

 僕はその小さな体を抱きしめながら、ようやく心の底から安堵の息を吐いた。


「ただいま、みんな。無事に帰ってきたよ」


 その日の夜は広場全体が祝祭の会場となった。

 中央で燃え盛る焚き火が集う人々の顔を赤く照らし、陽気な音楽と笑い声が夜のしじまに溶けていく。

 テーブルには、ミリアが腕によりをかけて作った猪の丸焼きや、色とりどりの野菜を使った煮込み料理、それから焼きたてのパンの香ばしい匂いが立ち上っていた。


「いやあ、見事なもんだぜ、リオの旦那は! 王家の連中を相手に一歩も引かなかったからな!」


 ドワーフたちが醸造したばかりの林檎酒を豪快に呷りながら、グルドさんが大声で僕の功績を喧伝する。

 その言葉に、周りの村人たちから「おおー!」という歓声と万雷の拍手が沸き起こった。


「あの鉄面皮の宰相の顔が歪む様は、ワシが打った会心の一振りが決まった時みてえで実に小気味よかったわい!」


 僕はその輪の中心で、少し照れくさい気持ちになりながらも、胸の中に温かいものが込み上げてくるのを感じていた。

 これこそが僕の守りたかった光景なのだと、改めて実感する。


しかし、そんな喧騒の中、ミリアだけは僕の隣で心配そうな瞳をしていた。


「……リオさん。お疲れのようですね。顔色が優れません」


 彼女は僕の表情に浮かぶ隠しきれない疲労の色と、どこか遠くを見つめるような眼差しに鋭く気づいていたのだ。


「ううん、大丈夫だよ。ただ、少しだけ……王都の空気に当てられちゃったみたいだ」


 僕は曖昧に微笑んで見せたけれど、ミリアの不安そうな表情は晴れなかった。


「何か……何かあったのですね? リオさんがそんな顔をなさるなんて……」


 彼女の言う通り、僕の心は今、単純な喜びだけでは満たされていなかった。

 むしろ王都で目の当たりにした光景が、重い鉛のように心に沈殿していた。


 宴が一段落した後、村の幹部たちが集会所に集まり、正式な報告会が開かれた。

 リアムが前に立ち、王都での交渉の詳細をよどみなく説明していく。


「――以上が今回の交渉の顛末です。結論から言えば、我々の大勝利と言っていいでしょう。

 王家は聖獣の郷を正式な自治領として認め、今後不当な干渉は行わないこと。そして我が郷の産物を王家が適正価格で買い上げるという、対等な交易関係を約束させました」


 リアムの報告に、集会所に集まった幹部たちから安堵と喜びの声が上がる。


「おお……! つまり俺たちの村は、国から正式に認められたってことか!」

「リオ様、さすがです!」


 興奮する仲間たちを前に、グルドさんも満足げに頷いた。


「ああ。王城でのリオの振る舞いは実に見事だった。

 例えば、あの意地の悪いゲルハルト侯爵が『辺境の蛮族が生産した作物など、本当に安全なのか』と横槍を入れてきた時だ。リオは顔色一つ変えず、こう言い放ったんだ」


 ――「『では侯爵、あなたはこの土を鑑定できますか? この土がどれほどの生命力を持ち、どんな毒素も浄化する力を持っているか、あなた自身の目で確かめることができますか?』


「ゲルハルト侯爵はぐうの音も出なかった。あれは圧巻だったぜ」


 グルドさんの具体的な賞賛に、僕はただ恐縮するしかなかった。

 しかし、僕は静かに首を横に振る。


「ありがとうございます。ですが、今回の成功は決して僕一人の力ではありません」


 僕は仲間たちの歓声を聞きながら、一人冷静に王都での出来事を反芻していた。

 

(今回の成功は、決して僕たちの力だけではない。王家の内紛、貴族間の力関係……いくつもの偶然が重なった結果だ。誰かの善意や都合に依存する平和は、あまりにも脆い……)


 決意を固めた僕は、仲間たちに向き直った。


「それに、今回の成功はあまりにも多くの偶然に助けられた、薄氷の上の勝利なんです」


「……どういうことだ、リオ?」

 訝しげに尋ねるグルドさんに、僕は答えた。


「僕たちが交渉に臨んだタイミングで、王家は第一王子派と第二王子派の対立が激化していました。彼らは互いを牽制し合うあまり、僕たちのような辺境の勢力にまで手を伸ばさざるを得なかった。ただ、それだけのことです」

「……厳しい、ですが的確な分析ですね」


 リアムの冷静な相槌に、僕はさらに続ける。


「もし、王家の権力基盤が盤石だったら? もし、僕たちの村の産物に彼らが価値を見出さなかったら? そう考えれば、今回の成功がいかに危ういものだったか分かるはずです」


 僕は一度言葉を切り、仲間たちの顔をゆっくりと見回した。


「僕たちの村はまだ弱い。だからこそ、真に自立しなければなりません。

 食料も、資源も、エネルギーも、全てをこの土地で賄い、誰の力も借りずに僕たちの手で僕たちの生活を守り抜く。それこそが僕が本当に目指すべき道なんです」


 僕の言葉に誰もが息をのむ。

 ミリアは固唾を飲んで僕を見つめ、グルドさんは厳しい表情で腕を組み、リアムは冷静な目で僕の真意を測っている。

 それはあまりにも壮大で、困難な道のりに思えただろう。


 けれど、僕の瞳には一点の迷いもなかった。


「僕たちの手で、誰にも揺るがすことのできない僕たちの楽園を完成させるんだ」


 僕の静かで、けれど強い決意に満ちた言葉が集会所に響き渡った。

 それは聖獣の郷の領主、リオ・アークライトとしての新たな戦いの始まりを告げる宣誓でもあった。


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