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第55話:霧中の惨敗


 歴史とは、勝者によって語られるものである。

 しかし、時に敗者のあまりにも惨めな物語が、人々の記憶に強く刻まれることもある。


 アークライト家の聖獣の郷からの敗走劇は、まさにその後者だった。


 森から命からがら逃げ出した兵士たち。

 彼らが恐怖に歪んだ顔で語る体験談は、あまりにも荒唐無稽で、されど妙な真実味を帯びていた。


「……森が、俺たちを喰らおうとしていたんだ……」

「ああ、地面が口を開け、木々が襲いかかってきた……」

「霧の中から、亡霊の声が聞こえたんだ……!」


 彼らの話は酒場の与太話として、瞬く間に王国中に広まっていった。

 その過程で話には尾ひれがつき、事実は人々の想像力によってさらに劇的に彩られていった。


 ある者は言った。

「辺境の村には、古代の魔術を操る恐ろしい亜人の魔女がいる」と。


 またある者は言った。

「追放されたアークライト家の三男は、悪魔に魂を売り、森を操る力を手に入れたのだ」と。


 いつしかこの戦は、こう呼ばれるようになっていた。


 ――『霧中の惨敗』、と。


 三千の正規軍が辺境の村一つに、一人の死傷者を出すこともなく、ただ霧と森と、見えない亡霊に敗れた。

 その前代未聞の敗戦は、アークライト家の軍事的な威信を一夜にして完全に失墜させた。


 王国最強と謳われた騎士団は今や、王国中の笑いものだった。


 その影響は計り知れないほど大きかった。


 これまでアークライト家の武力を背景に、同盟を結んでいた貴族たちが手のひらを返したように、次々と離反していく。


「もはやアークライト家に、力はない」

「あのような愚かな一族と、関わり合いになるのはご免だ」


 彼らは沈みゆく船から逃げ出す、ネズミのようだった。


 政治的な権威を失ったアークライト侯爵領の経済はあっという間に、完全に破綻した。

 凶作と資源の枯渇に、他領からの支援の停止が追い打ちをかけたのだ。


 領内には飢えた民が溢れ、治安は急速に悪化していった。

 かつて豊かで、誇り高き侯爵領の面影はどこにもなかった。


 このあまりにも異常な事態を、王都の国王が見過ごすはずがなかった。


 これまでアークライト家は、その強大な武力を以て王家にとって頼もしい盾であると同時に、潜在的な脅威でもあった。

 その力が自滅という最も愚かな形で失われた今、王家が動かない理由はどこにもなかった。


          ◇


 アークライト城の荒れ果てた謁見の間に、国王陛下の名代として一人の勅使が立っていた。

 その顔にはアークライト家への憐憫の色など微塵も浮かんでいない。ただ冷徹な、事実を告げるだけの無機質な表情があるだけだった。


 玉座にはこの数週間で、まるで十歳も年老いたかのようにやつれ果てたガレンが、力なく座っている。

 その隣にはもはや何の気力も残っていない、抜け殻のようなバルドが虚ろな目で、床の一点を見つめていた。


 勅使は国王陛下の紋章が刻まれた、荘厳な巻物を広げた。


「――国王陛下より、アークライト侯爵家当主、ガレン・アークライトへ、勅命である」


 その厳かな声が、静まり返った謁見の間に響き渡る。


「其方らは王家の許可なく、私的に軍を動かし王国に混乱を招いた。その罪は、万死に値する。――されど、これまでの王家への貢献に免じ、特別にその命だけは助け置く」


 その言葉に、ガレンとバルドの肩がわずかに震えた。


 しかし、勅使が次に告げた言葉は彼らにとって、死よりもなお残酷なものだった。


「――アークライト侯爵家は本日を以て、その爵位を一段階、降格。伯爵家とする。領地は現行の三分の一を王家へ返上すること。また、王国騎士団総帥の任も解くものとする」


 それは事実上の、アークライト家の没落を意味していた。


 爵位の降格。領地の削減。力の象徴であった騎士団総帥の任の、解任。

 彼らが代々、血と汗で築き上げてきた全ての栄光が、今この瞬間、音を立てて崩れ去ったのだ。


 勅使は感情のこもらない声で、最後の最も残酷な一文を読み上げた。


「――なお、聖獣の郷、及び、その周辺地域は本日より、アークライト家の支配を離れ、王家直轄の特別自治区と、これを認める」


 その言葉を聞いた瞬間、それまで抜け殻のようだったバルドが、はっと顔を上げた。


 聖獣の郷。

 全ての元凶。自らを地獄の底へと叩き落とした、あの忌まわしき土地。


 その土地が自分たちの手から完全に離れ、あまつさえ王家から公式に、その独立を認められた。


 それは彼の完全な、敗北を意味していた。


「……あ……ああ……」


 バルドの口から意味をなさない、呻き声が漏れた。


 彼はその場に、がくりと膝から崩れ落ちた。

 その瞳からは涙すら流れなかった。ただ、深い、深い絶望の色だけがその虚ろな瞳を支配していた。


 ざまぁ、ない。


 誰かがそう呟いたような気がした。


 それは彼がずっと、出来損ないの弟に向けてきた言葉だった。

 その言葉が今、特大のブーメランとなって彼自身の心臓に、深く突き刺さったのだ。


 アークライト家の長い、長い栄光の歴史は、こうしてあまりにも惨めな形で、その幕を閉じたのだった。


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