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第52話:ある兵士の独白


 ――俺の名前はケビン。

 アークライト侯爵領の貧しい農家の三男だ。


 俺がアークライト騎士団に志願したのは、三ヶ月前のこと。

 口減らしのためなんていうみじめな理由じゃない。俺はこの手で手柄を立てて、貧しい家族に楽をさせてやりたかったんだ。


 だから今回の遠征の話を聞いた時、俺は神に感謝した。


「辺境の村の亜人どもが起こした反乱を鎮圧する」


 聞けば簡単な任務だという。

 相手は正規の訓練も受けていない烏合の衆。総大将は、あの勇猛果敢なバルド様だ。

 負けるはずがない。


 俺は意気揚々と出陣した。

 ぴかぴかの鎧に身を包み、ずっしりと重い槍を手に持って。故郷の村を出る時、母さんが涙を浮かべながら手作りの干し肉を握らせてくれた。「武運を祈ってるよ」と。


 俺は胸を張って答えたんだ。

「大丈夫だよ、母さん。すぐに手柄を立てて、立派になって帰ってくるから」って。


 ああ、あの時の俺を殴りつけてやりたい。

 これから始まるのが地獄の始まりだとも知らずに、浮かれていたあの時の俺を。


 森に入って数時間が経った頃から、何かがおかしいと感じ始めた。


 仲間が次々と消えていくんだ。


 ある者は地面に開いた穴に落ち、ある者は空から降ってきた網に絡め取られ、またある者は謎の粉を浴びてその場でのたうち回った。


 敵の姿はどこにも見えない。

 聞こえるのは仲間たちの悲鳴と、森の不気味な静寂だけ。俺たちは見えない何かに、一方的に嬲られているようだった。


 決定打は食料が全て消えたことだった。


 たった一日で三千人分の食料が、跡形もなく消え失せたんだ。

 信じられるかい? そんな馬鹿げたことが現実に起こったんだ。


 腹が減った。


 最初はただの空腹だった。しかし、それはすぐに耐え難い苦痛へと変わった。

 力が出ない。槍を持つ腕が鉛のように重い。一歩足を踏み出すごとに、目眩がした。


 周りの仲間たちも同じだった。

 皆、亡霊のように青白い顔でふらふらと歩いているだけ。あれだけ高かった士気はどこにも残っていなかった。


「……敵は、どこにいるんだ?」


 誰かがぽつりと呟いた。その声は恐怖に震えていた。


 そうだ。それが一番、俺たちを蝕んだものだった。


 敵の姿が見えない。

 どこに隠れて俺たちを狙っているのか、全く分からない。

 もしかしたら隣を歩いているこいつが、次の瞬間には俺に斬りかかってくるんじゃないか。

 そんな疑心暗鬼が、部隊中に蔓延していた。


 バルド様は「進め!」と叫んでいる。

 しかし、その声もどこか空々しく、焦っているように聞こえた。


 俺たちは一体、何と戦っているんだ?


 亜人の反乱軍? 違う。

 俺たちが戦っているのは、この森そのものなんじゃないか。

 そんな途方もない考えが、頭をよぎった。


 やがて、その考えが確信に変わる出来事が起こった。


 霧だ。


 どこからともなく、乳白色の濃い霧が立ち込めてきたんだ。

 あっという間に視界は、数メートル先も見えないほど真っ白に閉ざされた。


「は、はぐれるな! 隊列を組め!」


 隊長が必死に叫んでいる。

 しかし、その声も霧に吸い込まれてくぐもって聞こえる。右も左も、前も後ろも分からない。

 完全に方向感覚を失った。


 俺はただ、立ち尽くすしかなかった。


 その時だった。


『……かえれ……』


 霧の奥から、声が聞こえた。


 男の声か、女の声か、それすらも分からない不気味な響き。


「ひっ……!?」


 俺は情けない悲鳴を上げた。


『……ここは、わたしたちの、もり……。おまえたちの、くるばしょじゃない……』


 声はすぐそばから聞こえるようでもあり、ずっと遠くから聞こえるようでもあった。


『……かえれ……。さもなくば、森の、こやしと、なるがいい……』


 その声を聞いた瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。


 手柄? 騎士団? 家族?

 そんなもの、どうでもいい。


 死にたくない。


 ただ、その一心で俺は持っていた槍を、その場に投げ捨てた。

 重い鎧も兜も、次々と脱ぎ捨てた。


 ただ、がむしゃらに走り出した。


 どこに向かっているのかも分からない。

 ただ、あの不気味な声から一刻も早く、遠ざかりたかった。


 背後で仲間たちの絶叫が聞こえたような気がした。

 けれど、俺はもう振り返らなかった。


 母さん、ごめん。

 俺、立派になんてなれそうもないや。


 俺はただ、生きて家に帰りたい。


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、俺は光の見えない白い闇の中を、ただひたすらに逃げ続けた。


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