第51話:ようこそ、絶望の森へ
アークライト軍が聖獣の郷の森に足を踏み入れたのは、進軍開始から五日目の昼過ぎだった。
総大将であるバルド・アークライトは自慢の愛馬にまたがり、不遜な笑みを浮かべていた。
(フン。辺境の森か。薄汚い亜人どもが住処にするには、お似合いの場所だ)
彼はこの戦を、戦とすら思っていなかった。
ただの反抗的な弟とその仲間たちを、力でねじ伏せるだけの簡単な『害虫駆除』だと。
三千の正規軍を前にして、辺境の村一つが一体何だというのか。
「――全軍、進め! 目標は村の中心部! 抵抗する者は一人残らず斬り捨てよ!」
バルドの号令一下、三千の軍勢がまるで巨大なナメクじのように、ゆっくりと森の中へと侵入していく。
彼らの誰もが、この先に待ち受けるのが栄光ある勝利だと信じて疑わなかった。
しかし、彼らが足を踏み入れたその場所はもはや、ただの森ではなかった。
僕たちが村の総力を挙げて作り上げた、巨大な罠の展示場。悪意と職人魂で満たされた、絶望への入り口だった。
最初の罠は、彼らが森に入ってちょうど一時間が経過した頃に発動した。
リアムが予測した通り、兵士たちの緊張が少し緩み、退屈と疲労が顔を出し始めた完璧なタイミングだった。
先頭を進んでいた部隊の足元で、突如、地面が崩落した。
「うわあああっ!?」
悲鳴と共に、十数名の兵士たちが為す術もなく、巨大な落とし穴の底へと吸い込まれていく。
「て、敵襲か!?」
「構えろ! 敵はどこだ!」
後続の部隊が慌てて剣を抜き、周囲を警戒する。
しかし、彼らがいくら目を凝らしても、森の木々の間からは矢の一本も飛んでこない。
ただ、不気味な静寂が辺りを支配しているだけだった。
やがて落とし穴の底から、兵士たちの呻き声が聞こえてきた。
「だ、誰か、助けてくれ……!」
「ぬ、ぬるぬるして、動けん……!」
そう。その落とし穴は、殺傷を目的としたものではない。
底に敷き詰められた大量の『ヌルヌルの実』が落ちた兵士たちの鎧や体に絡みつき、ただその動きを奪うだけの悪趣味な罠だった。
死者は一人もいない。しかし、その事実は兵士たちの心に、死ぬことよりも惨めな屈辱と得体の知れない恐怖を植え付けた。
それが悪夢の始まりだった。
先頭部隊の混乱を皮切りに、森の至る所でドワーフたちが仕掛けた罠が、まるで協奏曲を奏でるかのように次々と発動し始めた。
「ぎゃあっ! なんだ、この網は!?」
ある部隊は頭上から降ってきた巨大な網に絡め取られた。
網には大量の『ひっつき虫』が塗りたくられており、もがけばもがくほど全身が厄介な植物まみれになっていく。
「目が、目が痛ええっ!」
また別の部隊は突如、足元から噴出した白い粉を浴びた。
それは催涙効果のある植物の胞子で、兵士たちは涙と鼻水を垂れ流しながらその場にうずくまるしかなかった。
「うひゃひゃひゃ! 見てみろ、鎧が踊っておるわ!」
幻覚作用のある『ワライダケ』の胞子を吸い込んだ兵士たちは敵も味方も分からなくなり、その場で奇声を上げながら楽しげに踊り始めた。
吊り網、粘液、催涙粉、幻覚キノコ。
そのどれもが兵士の命を奪うことはない。しかし、それは彼らの騎士としてのプライドと戦う意志を、確実かつ効率的に削ぎ落としていった。
指揮系統は完全に麻痺した。
部隊は分断され、兵士たちはどこからどんな罠が飛び出してくるか分からない恐怖に、完全に支配されていた。
その混乱に拍車をかけるように、森の闇から「見えない敵」が牙を剥いた。
ミリア率いる兎獣人族の部隊が神出鬼没のゲリラ戦を開始したのだ。
彼女たちの狙いはただ一つ、敵の補給部隊のみ。
「――食料が! 俺たちの食料が、消えたぞ!」
後方で待機していた補給部隊から悲鳴が上がる。
彼らが気づいた時には、荷馬車に積まれていた食料の麻袋が荷馬車ごと、跡形もなく消え去っていた。
犯人の姿は誰も見ていない。ただ風に乗って、獣の匂いがしたような気がしただけだった。
食料を奪われたという事実は、兵士たちの間に飢えと、見えない敵に対する本能的な恐怖を植え付けた。
報告は次々と総大将であるバルドの元にもたらされた。
「申し上げます! 第一騎士隊、落とし穴にはまり、行動不能!」
「第三騎士隊、謎の粉を浴び、戦闘不能です!」
「補給部隊が、何者かの襲撃を受け、食料の全てを強奪されました!」
次々と舞い込む信じがたい報告の数々に、バルドの顔から余裕の笑みは完全に消え失せていた。
「……ありえん。何が、起こっている……?」
敵の姿が全く見えない。
一方的にこちらの戦力だけが削られていく。この状況は彼の理解を、完全に超えていた。
苛立ち、焦り、得体の知れない恐怖。
それらが彼の傲慢なプライドを、少しずつ蝕んでいく。
「ええい、ままよ!」
ついにバルドは、総大将として最も愚かな命令を下した。
「――全軍、突撃! こんな小細工、我らの力で踏み潰してしまえ! 村へ、村へ向かって、一直線に進め!」
それは自ら罠のど真ん中へと、全軍で飛び込んでいくに等しい無謀な命令だった。