第45話:民の怒りと、領主への信頼
アークライト家の使者が残していった理不尽な要求は、まるで燎原の火のように、瞬く間に村の隅々にまで伝わっていった。
その日の夜、村で唯一の酒場は、怒れる男たちの熱気でむせ返っていた。
「ふざけやがって! 年間総生産の七割だと!?」
ドワーフの若い鍛冶師が、エールがなみなみと注がれた木のジョッキをテーブルに叩きつけた。
「俺たちが毎日汗水垂らして、ようやくここまでにした村だ! それを、あんな紙切れ一枚で奪い取ろうってのか!」
「ああ、全くだ! 王都の貴族様ってのは、俺たちのことなんざ家畜くらいにしか思ってねえんだろうよ!」
犬獣人の狩人が、苦々しく吐き捨てる。
彼らは皆、かつて人間の領主から家畜以下の扱いを受け、この聖獣の郷に逃れてきた者たちだ。
アークライト家の要求は、彼らにその忌まわしい過去を思い出させた。
搾取され、尊厳を奪われ、ただ生きるためだけに全てを差し出す日々。
もう二度と、あんな場所には戻らない。
その想いが、彼らの心を一つにしていた。
「いっそ、三日後に来やがったら、皆で叩き出してやろうぜ!」
「おう! ワシの自慢の斧が火を噴くぜ!」
血気盛んな男たちの声が、酒場に響き渡る。
彼らの怒りは本物だった。
この村と、自分たちの暮らしを守るためなら、命を懸けて戦うことも厭わない。
その覚悟が、ひしひしと伝わってきた。
しかし、そんな彼らを、カウンターの内側から静かに見守っていた酒場の主人が、そっと口を開いた。
「まあ落ち着け、お前たち。気持ちは分かるが、早まるんじゃねえ」
彼は大きな体を揺すりながら、ゆっくりと言った。
「お前たち、忘れたわけじゃあるめえ。この村には、誰がいる?」
その一言に、あれだけ騒がしかった酒場が、水を打ったように静まり返った。
男たちは皆、顔を見合わせ、まるで示し合わせたかのように、一つの答えに辿り着いた。
「……リオ様だ」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「そうだ。この村には、我らが領主、リオ・アークライト様がいらっしゃる。あの方が、俺たちを見捨てるはずがねえ。あの方が、俺たちの暮らしが壊されるのを、黙って見てるはずがねえんだ」
酒場の主人の言葉は、不思議な力を持っていた。
燃え盛る炎のような男たちの怒りを、それは暴力的な衝動ではなく、もっと静かで、されど、より強固な決意へと変えていった。
「……そうだな。リオ様なら、きっと何とかしてくださる」
「ああ。俺たちは、ただリオ様を信じて、あの方の言葉を待てばいいんだ」
先ほどまでの怒声が嘘のように、男たちは静かに頷き合った。
彼らの瞳に宿るのは、領主への絶対的な信頼の光だった。
それは、恐怖や盲信からくるものではない。
リオがこれまで、一人一人の村人と向き合い、その手で村を豊かにしてきたこと。
皆の暮らしを守ってきたこと。
その確かな実績から生まれた、本物の信頼だった。
◇
翌日の朝、市場はいつもとは少し違う空気に包まれていた。
品物を並べる女たちの顔には、不安の色が浮かんでいる。
彼女たちは、昨夜の酒場での夫たちの荒い息遣いを、家で聞いていたのだろう。
「ねえ、聞いた? アークライト家からの、あの話……」
「ええ……。七割も持っていかれたら、私たち、どうなっちゃうのかしら……」
「また、あの頃みたいに、子供たちにひもじい思いをさせなきゃいけないのかねえ……」
囁かれる言葉は、未来への不安に満ちていた。
しかし、その重苦しい空気を、一人の兎獣人族の母親が、凛とした声で打ち破った。
「大丈夫よ」
彼女は、幼い子供の手を固く握りしめながら、毅然として言った。
「あなたたち、忘れたの? 私たちがこの村に来たばかりの頃のことを。食べるものも、住む家もなくて、明日をも知れぬ私たちを、誰が救ってくれた? 誰が、この豊かな土地と、安心して眠れる家を与えてくれた?」
その言葉に、女たちは皆、はっとしたように顔を上げた。
「リオ様よ。あのリオ様が、私たちを見捨てるはずがないじゃない。あの方は、いつだって私たちのことを一番に考えてくださる。あの方が、私たちの大切なこの暮らしを、あんな連中に壊させるはずがないわ」
彼女の言葉には、一片の迷いもなかった。
それは、確信に満ちた、力強い宣言だった。
その言葉は、さざ波のように、女たちの心に広がっていった。
不安に曇っていた彼女たちの顔に、少しずつ、光が戻ってくる。
「……そうよね。リオ様が、いらっしゃるものね」
「ええ。私たちは、ただ、私たちにできることをして、あの方を信じて待っていればいいのよ」
女たちは、静かに、しかし力強く頷き合った。
彼女たちの手は、再び品物を並べ、客を呼び込むための作業に戻っていく。
その動きには、もう迷いはなかった。
その様子を、少し離れた場所から、ミリアがじっと見ていた。
彼女は、緊急の幹部会に向かう途中だった。
(……すごい。この村は、いつの間にか、こんなにも強くなっていたんだ)
理不尽な要求にただ怒り、怯えるだけではない。
その怒りと不安を、領主への信頼と、自分たちの暮らしを守るという団結に変えている。
それは、かつて迫害され、ただ逃げることしかできなかった亜人たちの姿ではなかった。
自らの故郷と、自らの領主を持つ、誇り高き民の姿だった。
ミリアは、村人たちのその成長が、誇らしくてたまらなかった。
同時に、彼らの想いを一身に背負うことになるであろう、一人の優しい青年のことを思った。
(リオさん……。あなたは、一人じゃない)
ミリアは、胸に込み上げてくる熱い想いを抱きしめ、決意を新たに、会議室へと続く道を、一歩、強く踏み出した。