第44話:侯爵家の使者
聖獣の郷には、いつもと変わらない、穏やかで活気に満ちた時間が流れていた。
その日の昼下がり、僕は新しくできた学校の校庭で、子供たちと一緒に過ごしていた。
ミリアの授業が終わった後、カカンとココンにせがまれて、木彫りの動物を作ってやっていたのだ。
「リオお兄ちゃん、次はハクさんがいい!」
「ココンは、おっきいクマさんがいいな!」
僕の周りには、いつの間にかたくさんの子供たちが集まっていた。
犬獣人、猫獣人、ドワーフ、それに人間の子供もいる。
彼らは僕の手元を、目を輝かせながら覗き込んでいた。
「はい、どうぞ。カカンの分のハクだよ」
「わーい! ありがとう、リオお兄ちゃん!」
小さな白虎の木彫りを渡すと、カカンはそれを宝物のように胸に抱きしめた。
その無垢な笑顔を見ているだけで、僕の心は満たされていく。
この光景こそが、僕が守りたいと願う全てだった。
その、あまりにも平和な時間を切り裂くように、それは突然やってきた。
村の入り口の方から、複数の馬が地を蹴る、荒々しい蹄の音が響いてきたのだ。
それは、この村の日常にはあまりにも不釣り合いな、暴力的で威圧的な音だった。
子供たちの間に、さっと不安の色が広がる。
僕は彼らを安心させるように、「大丈夫だよ」と優しく声をかけると、音のする方へと視線を向けた。
見えたのは、十数騎の騎馬の一団だった。
先頭に立つ馬には、見覚えのある紋章が描かれた旗が掲げられている。
二本の剣が交差する、アークライト家の紋章だ。
彼らは村の入り口で馬を降りることもなく、広場まで土足で踏み込んできた。
その無遠慮な振る舞いに、市場の商人や村人たちが、訝しげな、敵意のこもった視線を向けている。
一団の中心にいるのは、貴族らしい豪華な服に身を包んだ、神経質そうな顔つきの文官だった。
彼は馬上から、まるで汚物でも見るかのように僕たちや周囲の村人たちを見下ろすと、吐き捨てるように言った。
「この村の責任者はどこだ。リオ・アークライトはどこにいる」
その傲慢な物言いに、僕の背後にいた子供たちがびくりと体を震わせた。
僕はゆっくりと立ち上がると、子供たちを背中に庇いながら、一歩前に出た。
「……僕がリオ・アークライトです。アークライト家の方々が、このような辺境の村に何の御用でしょうか」
僕が名乗り出ると、文官は僕の姿を頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように眺め、鼻で笑った。
「ほう。貴様が、あの出来損ないの三男か。なるほど、噂通りのみすぼらしい格好だな」
その侮辱の言葉に、僕の背後からミリアが飛び出そうとするのを、僕は手で制した。
ここで感情的になるのは、相手の思う壺だ。
「それで、御用件は?」
僕は努めて冷静に、もう一度問いかけた。
すると文官は、待ってましたとばかりに懐から巻物を取り出し、それを高らかに広げてみせた。
「我が主、ガレン・アークライト侯爵様からの通達である! よく聞け、亜人ども!」
彼はわざと周囲に聞こえるように、大声で巻物の内容を読み上げ始めた。
「『――三男リオ・アークライトへ。貴殿が治める聖獣の郷の目覚ましい発展、父として喜ばしく思う。
ついては、昨今の我がアークライト侯爵領の苦境を鑑み、親子間の援助として、聖獣の郷の年間総生産の七割に相当する金品、鉱石、及び農作物を、我がアークライト家へ『上納』することを命ずる』――」
その一文が読み上げられた瞬間、広場の空気が凍りついた。
年間総生産の、七割。
それは、もはや援助や上納金というレベルの話ではなかった。
村の経済を根幹から破壊し、僕たちから全てを奪い去ろうという、剥き出しの搾取宣言だ。
それは、この村で暮らす全ての民に、「死ね」と宣告しているに等しかった。
村人たちの間に、最初は戸惑いが、やがて燃え上がるような怒りが広がっていくのが、肌で感じられた。
「な……なんだと……!」
「ふざけるな! 俺たちが汗水流して築き上げた村を……!」
「七割だぁ? そんなもの払ったら、冬を越せずにみんな飢え死にしちまう!」
グルドさんを始めとするドワーフたちが、今にも飛びかからんばかりの勢いで唸り声を上げる。
ミリアも、その赤い瞳に静かな怒りの炎を宿し、使者を睨みつけていた。
しかし、当の文官は、そんな村人たちの怒りを意にも介さず、むしろ楽しんでいるかのように、歪んだ笑みを浮かべていた。
「――以上である。これは侯爵家当主ガレン様からの、正式な命令である。もしこの命令に従わぬというのであれば、それはアークライト家、ひいては王国法に対する明確な『反逆』と見なす。分かったか、出来損ない」
彼は巻物を閉じると、それを僕の足元に投げ捨てた。
「返答の期限は三日以内だ。三日後、改めて返答を受け取りに来る。せいぜい、愚かな選択をしないことだな」
それだけを一方的に言い放つと、使者の一団は馬首を返し、やってきた時と同じように、荒々しく広場を去っていった。
後に残されたのは、踏み荒らされた広場の土と、地に落ちた理不尽な要求の巻物。
そして、怒りと不安に震える村人たちだけだった。
僕は、足元に落ちた巻物を、ただ無言で見つめていた。
僕の握りしめた拳が、怒りで白く変色していることに、僕自身は気づいていなかった。
僕の背後で、カカンとココンが、小さな声でしくしくと泣き始めた。
そのか細い泣き声が、僕の心に深く、深く突き刺さった。