第43話:アークライト家の焦燥
聖獣の郷が、種族を超えた絆によって新たな希望を生み出していた頃――。
アークライト侯爵領は、まるで対極にあるかのような、重く、冷たい沈滞の空気の中にあった。
アークライト城の会議室は、陰鬱な沈黙に支配されている。
上座に座る当主ガレン・アークライトの顔には、焦りと疲労の色が深く刻まれていた。
その前に並ぶ家臣たちは皆、一様に俯き、誰一人として主君と目を合わせようとはしない。
「……それで、報告はそれだけか」
ガレンが絞り出すような声で言った。
その声には、かつて王国騎士団総帥として轟かせた威厳の欠片もなかった。
「は……。恐れながら申し上げます。南部の穀倉地帯では、原因不明の立ち枯れ病が蔓延し、今年の収穫は例年の三割にも満たない見込みにございます」
「西の鉱山からも報告が。主要な鉱脈が枯渇した模様で、採掘量が激減しております」
「領内の河川も、この数ヶ月でかつてないほど水位が低下しており、各地で水不足が深刻化しております。領民の間では、『土地が死んでいく』という不吉な噂が……」
家臣たちから次々と上がるのは、絶望的な報告ばかりだった。
凶作、資源の枯渇、水源の涸渇。
まるで、この土地そのものが生命力を失い、ゆっくりと死に向かっているかのようだった。
ガレンはギリ、と奥歯を噛み締めた。
アークライト家は、代々この豊かな土地に支えられ、その武力と富を誇ってきた。
その土地が、今、自らの足元から崩れ落ちようとしている。
(なぜだ……。私が当主となってから、一体何が変わったというのだ……)
原因が分からない。
それが何よりもガレンを苛立たせていた。
彼は自らの治世に一点の曇りもないと信じていた。
法を厳格に適用し、怠惰を許さず、力によって領地を支配してきた。それが、アークライト家のやり方だったはずだ。
その時、それまで黙って父の隣に座っていた長男のバルドが、吐き捨てるように言った。
「……くだらん。全ては些事だ。土地が痩せただの、水が枯れただの、そのようなことで我がアークライト家が揺らぐものか」
その言葉には、何の根拠もなかった。
ただ、自らのプライドを守るためだけに現実から目を背けている、虚勢の塊だった。
家臣たちはそんな彼に、侮蔑とも憐れみともつかない視線を向けたが、バルドはそれに気づく様子もない。
会議は、何の具体的な対策も決まらぬまま、重苦しい雰囲気の中でお開きとなった。
◇
自室に戻ったバルドは、重い足取りで椅子に深く沈み込んだ。
先ほどの会議で突きつけられた、領地の惨状。それが、彼の脳裏に重くのしかかる。
(なぜだ……。なぜ、何もかもうまくいかん……)
ふと、あの聖獣の郷での敗北が、鮮明に蘇る。
ヴァイスの圧倒的な力の象徴であったゴーレムを、知恵と仲間との絆で打ち破った、あの忌々しい弟の姿。
あの時、確かに自分は負けを認めたはずだった。
リオのやり方が、自分が信じてきた力一辺倒のやり方とは違う、何か得体の知れない『本物』であると、認めざるを得なかったはずだ。
(……俺は、あの時、あいつに力を尽くすと、約束したはずではなかったか……?)
一瞬、彼の心に、正気と良心が顔を出す。
だが、それも束の間だった。
机の上に山と積まれた、領内の各所からの、絶望的な報告書の山が、彼の視界に入った。
凶作に喘ぐ民の嘆願書。枯渇した鉱山の閉山届。日に日に悪化していく、治安の報告。
その一つ一つが、彼の無能さを、領主の跡取りとしての資質の欠如を、雄弁に物語っていた。
「……違う」
バルドの口から、呻き声が漏れた。
「俺のせいではない……。俺が、劣っているわけがない……!」
認めるわけにはいかなかった。
自分が、あの出来損ないの弟に、劣っているなどと。
その事実を認めてしまえば、彼の、脆いプライドは、完全に崩壊してしまうだろう。
彼は、何かに取り憑かれたように、机の引き出しを漁った。
そして、一番奥にしまい込んでいた、密偵からの、聖獣の郷に関する最新の報告書の束を、乱暴に掴み出した。
そこに綴られていたのは、信じがたいほどの成功譚だ。
王家との直接交易の開始。
ドワーフの技術による水路の完成。
近隣の街や行商人の間で、驚異的な高値で取引されているという新特産品の数々。
バルドの目は、報告書の最後の一節に釘付けになった。
『――特に「自動保温ポーション瓶」なる魔法道具は圧巻である。ドワーフの金属加工技術と亜人の薬草学が融合したこの逸品は、王都のいかなる工房も再現不可能であり、その価値は計り知れない。もしこれが安定して供給されるならば、辺境の経済地図を塗り替えかねないほどの潜在能力を秘めている――』
「……ふざけるな」
バルドの手の中で、羊皮紙がぐしゃりと音を立てて握り潰された。
屈辱だった。
自分が失態を演じ、領地が衰退の一途を辿っている一方で、あの出来損ないの弟が、自分には到底理解できない方法で成功を収めている。
そうだ。やはり、おかしいのだ。
これは、偶然などではない。
(そうだ……。全て、あの男のせいだ)
バルドの心に、どす黒い確信が生まれた。
それは、自らの無能さから目を背けるための、唯一の、甘美な逃げ道だった。
(リオ……。あの疫病神が、本来なら我がアークライト家にもたらされるはずだった幸運を、富を、名声を、全て吸い上げているのだ。あの男が豊かになればなるほど、我らの土地は痩せていく。そういう呪われた星の下に、あの男は生まれたに違いない)
それは、あまりにも身勝手で、幼稚な責任転嫁だった。
しかし、一度そう思い込んでしまえば、彼の心は驚くほど軽くなった。
憎むべき対象が、見つかったからだ。
バルドの口元に、歪んだ、邪悪な笑みが浮かんだ。
彼は握り潰した報告書を暖炉に投げ込むと、踵を返し、父ガレンの執務室へと向かった。
扉をノックもせずに開け放ち、中にいた父の前に進み出る。
「父上。もはや、これ以上あの忌まわしき村を放置しておくわけにはいきません」
「……バルドか。何用だ」
「決まっております。我らが本来得るべき富を、『徴収』するのです」
バルドは、まるで獲物を見つけた肉食獣のような目で、父に告げた。
「考えてもみてください。あの土地も、そこに住む亜人も、元はと言えば我がアークライト家のものです。子であるリオが、親である我らの苦境に際し、援助を申し出るのは当然の義務。それを拒むというのなら、それはすなわち、王国法への反逆にあたります」
その言葉は、悪魔の囁きのように、疲弊したガレンの心に染み込んでいった。
領地の衰退、家臣からの信望の低下、何よりも、当主としての権威の失墜。
その全てを覆すための、甘美な解決策に聞こえた。
バルドは、父の心が揺れているのを見て取り、勝利を確信した笑みを、さらに深くした。
「――さあ、父上。あの反逆者から我らの富を、そして誇りを、今度こそ取り戻しましょうぞ」