第41話:豊穣の郷と希望の民
行商人であるクラウスが、この聖獣の郷と呼ばれる村に足を踏み入れてまず感じたのは、圧倒的なまでの『生』の気配だった。
彼がこれまで見てきた辺境の村々とは、何もかもが違っている。
道は石畳で綺麗に舗装され、その両脇には様々な種族の活気ある声が飛び交っていた。
屈強なドワーフたちが作ったであろう頑丈な農具を並べる店。
兎獣人の女性たちが薬草や、色とりどりのドライフルーツを売る屋台。
犬獣人や猫獣人の子供たちが、種族の垣根なく一緒になって駆け回っている。
空気が違う。澱んでいないのだ。
人々から搾り取るだけ搾り取り、その不満と諦めが霧のように立ち込めている王国の他の街とは、根本的に異なっていた。
「へい、旦那! 見てってくれよ! 今朝獲れたばかりの川魚だ!」
「そこのお嬢さん、このポポの実のジャム、味見していかないかい? 甘くて美味しいよ!」
彼らの顔には生活のための必死さよりも、自分たちの産品に対する誇りと、それを売ることへの純粋な喜びが浮かんでいた。
クラウスは思わず足を止め、兎獣人の女性が差し出したジャムを少しだけ指ですくって舐めてみた。
「……! これは……美味い!」
口の中に広がる、濃厚で自然な甘み。
こんなに美味いジャムは、王都の高級店でも滅多にお目にかかれるものではない。
「ふふ、だろ? ここの土地は不思議なんだ。リオ様が来てから、土がどんどん元気になって、何を作っても信じられないくらい美味しくなるんだよ」
女性は悪びれもなく「リオ様」の名を口にした。
その響きには、領主への恐怖や媚びではない。
心からの尊敬と親愛が込められているのが、旅から旅への暮らしで人の機微に敏感になったクラウスには、痛いほど分かった。
(……なんだ、この村は。まるで、おとぎ話の世界じゃないか)
クラウスはジャムを一つ買い求めると、再び歩き出した。
この村の噂は、行商人の間でも広まりつつあった。
「辺境に、亜人たちが集う豊かな村がある」と。
だが、これほどのものとは誰も想像していなかっただろう。
これはもはや村ではない。一つの理想郷だ。
彼はこの驚きと興奮を、次の街で誰かに話したくて、たまらなくなった。
◇
村の喧騒から少し離れた小高い丘の上を、僕とミリアは並んで歩いていた。
僕たちの足元には、村を潤すために新しく作られた水路が、太陽の光をきらきらと反射させながら流れている。
「すごい……。本当に水が、村の隅々まで行き渡っています」
ミリアが感嘆の声を上げた。
その赤い瞳は、水路の先に広がる青々とした畑に向けられている。
「これも全て、グルドさんたちドワーフの皆さんのおかげだね。彼らの技術がなければ、こんなに早くは完成しなかった」
「はい! それに、この水路のおかげで畑の水やりが本当に楽になりました。今では子供たちも手伝ってくれるんですよ」
嬉しそうに話すミリアの横顔を見て、僕の胸にも温かいものが込み上げてくる。
学校ができてから、彼女は先生として子供たちと接する時間が増え、以前にも増して生き生きとしているように見えた。
やがて僕たちの目の前に、ごとり、ごとりと力強い音を立てて回転する巨大な水車が見えてきた。
水路の終点に作られた、村の新たな心臓部である。
水車の前では、腕を組んだグルドさんが仁王立ちで僕たちを待っていた。
その顔は自慢の作品を前にした職人のもので、これ以上ないほど誇らしげだ。
「フン、どうだ小僧。ワシらにかかればこの通りよ」
「すごいです、グルドさん! これだけの水路と水車をこんなに早く……。本当にありがとうございます」
僕が心からの感謝を伝えると、グルドさんは「当然のことをしたまでだ」とぶっきらぼうに答えながらも、その見事な三つ編みの髭を満足げに揺らした。
「この水車があれば、脱穀や製粉の効率が何倍にもなります! これで冬の備蓄も安心ですね!」
ミリアが農業責任者としての視点から、その価値を熱弁する。
「フン、それだけじゃねえぞ、嬢ちゃん」
グルドさんは水車の内部を指差した。
複雑に組み合わされた歯車が、巨大な水車の回転を、石臼を回すためのより速く、力強い動きへと変換している。
「この動力を使えば、鍛冶場のふいごを動かすことだって、木材を加工することだってできる。こいつはただの製粉機じゃねえ。この村の産業を次の段階へ進めるための、まさに原動力なんだ」
グルドさんの熱のこもった説明に、僕とミリアはただただ感心して聞き入った。
僕の【土地鑑定】スキルは、土地の可能性を見つけ出すことはできる。けれど、その可能性を形にするのは、ここに住む人々の知恵と技術だ。
この村は、様々な種族がそれぞれの得意なことを持ち寄り、手を取り合うことで、一人では決して見ることのできない未来へと進んでいる。
その事実が、僕は何よりも嬉しかった。
僕たちはしばらくの間、この村の新たな希望の象徴である水車を、ただ黙って眺めていた。
その穏やかな時間を破ったのは、一人のエルフの青年だった。
リアムの配下で、情報伝達役を務めてくれている人物だ。
彼は僕たちの元に静かに歩み寄ると、険しい表情で一枚の羊皮紙を差し出した。
「リオ様、リアム様より緊急のご報告です」
そのただならぬ雰囲気に、僕とミリアは顔を見合わせた。
僕は彼から羊皮紙を受け取ると、そこに書かれた簡潔な文章に目を通した。
僕の顔から、すっと笑みが消えた。
「リオさん? どうかしたんですか?」
心配そうに僕の顔を覗き込むミリアに、僕は乾いた声で、そこに書かれた最後の一文を読み上げた。
「……『アークライト侯爵領にて、原因不明の凶作と疫病が流行の兆し』、だってさ」
僕の言葉に、ミリアとグルドさんが息をのむのが分かった。
ごとり、ごとり、と水車が立てる力強い槌音だけが、まるで遠い世界の出来事のように、僕たちの耳に空々しく響いていた。