第4話:聖獣との出会い
泉のほとりに残された巨大な獣の血痕と、強力な神経毒の痕跡。
この荒野には僕以外の誰かが、いや何かがいる。
それも、尋常ではない何かが。
「どうしよう……」
危険だと本能が警鐘を鳴らしていた。今すぐこの場を離れ安全な場所を探すべきだと。
しかし、僕の足は動かなかった。
毒に侵され苦しんでいる存在がいる。その事実が、僕の心を強く捉えて離さなかったのだ。
マーサさんが昔教えてくれた。
『大地に生きるものは皆家族です。苦しんでいる者がいれば、手を差し伸べるのが当たり前ですよ』
「……そうだよな」
僕は意を決した。助けられる命があるのなら見過ごすわけにはいかない。
幸い僕の【土地鑑定】スキルは毒の成分だけでなく、それを中和する薬草の自生地まで教えてくれていた。泉からそう遠くない岩陰に群生しているはずだ。
僕は水筒に清らかな水を満たすと、慎重に血痕をたどり始めた。
血痕は近くの森へと続いている。一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。瘴気のせいか森の中は昼間だというのに薄暗く、不気味な静寂に包まれている。
しばらく進むと森の奥、少し開けた場所に信じられない光景が広がっていた。
「……なんだ、これは……」
そこにいたのは、一頭の巨大な白虎だった。
山のように大きな体躯は純白の毛並みで覆われ、神々しいほどの威厳を放っている。額には小さな一本の角が生えており、それがただの獣ではないことを示していた。
間違いない。あれは建国神話に登場する伝説の聖獣だ。
だがその聖獣は見るからに衰弱しきっていた。脇腹にはワイバーンの爪で引き裂かれたような深い傷があり、そこから流れた血が純白の毛並みを赤黒く染めている。呼吸は浅く苦しげに繰り返されていた。
僕が泉のほとりで見つけた血痕はこの聖獣のものだったのだ。
僕が息をのんで立ち尽くしていると、聖獣がゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、月のような金色。
加えて、人間に対する明確な敵意と深い絶望の色が宿っていた。
――グルルルル……。
喉の奥から地響きのような唸り声が漏れる。
全身の毛が逆立ち、一触即発の張り詰めた空気が流れた。
この聖獣は人間を憎んでいる。それが痛いほど伝わってくる。
「落ち着いてくれ。僕は君の敵じゃない」
僕は必死に語りかけるが、聖獣の警戒心は解けない。
このままでは、この聖獣は毒によって命を落とすだろう。
しかし、下手に近づけば僕がその鋭い爪の餌食になりかねない。
僕は聖獣から目を離さないようにしながら、ゆっくりと後ずさった。まずは解毒薬となる薬草を手に入れるのが先決だ。
鑑定が示した場所はすぐに見つかった。
岩陰に月光のような淡い光を放つ薬草がひっそりと群生している。僕はそれを必要な分だけ摘み取ると、近くの平らな岩の上で石を使って丁寧にすり潰していく。
やがて薬草は、粘り気のある緑色のペースト状になった。問題はこれをどうやって聖獣に与えるかだ。
僕は聖獣がいた場所へと再び戻った。
聖獣は相変わらず僕を睨みつけている。その金色の瞳は少しも警戒を解いていない。
僕は覚悟を決めた。
武器になるようなものは全て地面に置く。
錆びついた剣も、シャベルも。
薬草を塗った葉だけを手に、丸腰でゆっくりと聖獣へと歩み寄る。
「……僕は、君に危害を加えるつもりはない」
届くはずもないとわかっていながら僕は語りかけた。
「君を助けたいんだ。その傷、苦しいだろう? 僕にはわかる。君が、この森をこの土地をずっと守ってきたことも」
僕の言葉に、聖獣の唸り声がさらに低く威圧的になる。
やめておけ人間。それ以上近づけば容赦はしない――その金色の瞳がそう告げていた。
それでも僕は、歩みを止めなかった。
あと数メートル。
聖獣の荒い息遣いが、聞こえるほどの距離まで近づいた。
その時だった。
「グルァァァッ!」
聖獣が、最後の力を振り絞るように咆哮を上げた。
巨大な前足が、目にも留まらぬ速さで振り上げられる。鋭い爪がきらりと光る。
ああ、ここまでか。
僕は死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。
しかし、想像していた衝撃はいつまで経ってもやってこない。
おそるおそる目を開けると、僕の目の前ほんの数センチのところで、巨大な爪がぴたりと止まっていた。
聖獣は僕を殺そうと思えばいつでも殺せたのだ。
けれど、そうしなかった。
その金色の瞳はまだ僕を睨みつけてはいるが、その奥にほんの少しだけ戸惑いの色が浮かんでいるように見えた。
僕が一切の敵意も恐怖も見せなかったからだろうか。
それとも、僕が手に持つ薬草の匂いに何かを感じ取ったのだろうか。
理由はわからない。でもこれは好機だ。
僕は震える手で、薬草を塗った葉をそっと聖獣の口元へと差し出した。
「さあ、これを食べて。きっと楽になるから」
僕の必死の願いが通じたのか。
聖獣はしばらく僕の顔と薬草を交互に見ていたが、やがて観念したようにその大きな口を開いた。
そして、僕の手から葉を優しく食んだのだ。
その瞬間、僕の全身からどっと力が抜けていくのを感じた。