第28話:リコリス商会の女当主
僕の突然の申し出に、リコリス商会の店主である彼女は少しだけ、その理知的な青い瞳を瞬かせた。
だがすぐにプロの商人としての顔つきに戻ると、落ち着いた声で僕に問い返した。
「ビジネス、ですか。失礼ですがお客様は……?」
「これは失礼しました。僕はリオ・アークライト。このロックベルクの北にある、聖獣特区の領主を務めています」
「聖獣特区……! あなたが、あの……」
彼女の目に驚きと興味の色が浮かんだ。噂はこのロックベルクにも届いているらしい。
「ええ。僕たちは僕たちの村で作った産品を、正当な価格で取引してくださる信頼できるパートナーを探しています。あなたの店の商品を拝見して……そのあまりに見事な品質だったので、ぜひお話を伺えないかと思いまして」
僕の言葉に彼女は、はっとしたように頬をわずかに赤らめた。自分の仕事が認められたことが素直に嬉しいのだろう。
「……ありがとうございます。ですが見ての通り、うちはこんな寂れた場所で、細々とやっているだけの小さな店です。あなた様のような特区の領主様のお眼鏡にかなうような商会では……」
「いいえ、そんなことはありません」
僕は彼女の言葉を遮るように、きっぱりと言った。
「僕が求めているのは店の大きさや、知名度ではありません。商品の価値を、そしてそれを作る人々の想いを正しく理解してくださる、誠実な心です」
僕は護衛の若者が持っていた荷物の中から、いくつかの包みを取り出し彼女の店の小さな木の台の上に、そっと並べた。
「これは……?」
「僕たちの村の産品です。まずは、これを見ていただきたい」
僕が最初に開いた包みの中には、朝露に濡れたばかりのような瑞々しい薬草が入っていた。
聖獣の郷の清らかな魔力を含んだ土で育った、最高品質の薬草だ。
「……! なんて生命力に満ちた薬草……。葉の一枚一枚がまるで輝いているようです」
彼女は専門家として、その薬草の価値を一目で見抜いたようだった。その青い瞳が驚きに大きく見開かれている。
「次に、こちらを」
僕は小さな革袋を取り出した。
中にはギムガーさんが、試しに打ってくれた一本の小さなナイフが入っている。
「これは僕たちの村に新しく加わった、ドワーフの鍛冶師が打ったものです。まだ本物の工房がないので、ありあわせの道具で打ったものですが」
彼女は恐る恐る、そのナイフを手に取った。
そしてその刃に刻まれた、見事な波紋と吸い込まれるような切れ味を確かめると、今度は感嘆のため息を漏らした。
「信じられない……。ドワーフの、それもこれほどの腕を持つ職人さんが、あなたの村に……?」
「はい。そして最後に、これです」
僕はただの、ありふれたニンジンを一本彼女の前に差し出した。
彼女は一瞬、怪訝な顔をしたが、そのニンジンを手に取るとはっとしたように、目を見開いた。
「この密度……。それにこの甘い香り……。ただの野菜じゃ、ありませんね?」
「ええ。聖獣の郷の特別な土で育ったニンジンです。味も栄養価も、そこらのものとは比べ物にならないと自負しています」
彼女は僕が差し出した三つの品を、食い入るように見つめていた。
その瞳はもはや、ただの商人の目ではなかった。未知の宝物を前にした探求者の目だった。
「……素晴らしいです。これほどの逸品、見たことがありません。あなた方はまさに、宝の山を築き上げているのですね」
彼女は興奮した様子で、そう言った。
「僕はこれらの品を、あなたと共に世に広めたい。もちろん、正当な取引価格で。あなたのような誠実な商人と、手を取り合って」
「……私の、ような……」
「はい。あなたのお店はこの市場で、唯一バルト商会の息がかかっていないように見えましたから」
僕のその言葉に、彼女の顔からさっと血の気が引いた。
そしてその表情が、喜びから深い悲しみと、諦めの色へと変わっていく。
「……お話は大変、光栄です。ですがそのお話、お受けすることはできません」
「……なぜ、です? 何か問題でも?」
「問題だらけですよ」
彼女は自嘲するように、そう言った。その時だった。
「おい、セリナ! てめえ、まだこんなところで商売ごっこをやってやがったのか!」
下品な怒鳴り声と共に、三人の柄の悪い男たちが、僕たちの前に姿を現した。
その腕にはバルト商会の紋章が、これみよがしに彫られている。
「なっ……! あなたたち、何の用ですか!」
セリナと呼ばれた彼女が毅然とした態度で、男たちを睨みつけた。
「何の用だ、だと? 分かってんだろうが。さっさとこの場所を明け渡しやがれ。ここはもうすぐ、俺たちの店になるんだよ」
「ふざけないで! ここは父が遺してくれた、大切な店です! あなたたちなんかに渡すものですか!」
「へっ、威勢のいいことだな、お嬢ちゃん。だがな、ダミアン様はお前に、もう何度もチャンスをやったはずだぜ? それをことごとく、突っぱねてきたのはてめえの方だろうが!」
リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべながら、セリナに一歩、また一歩とにじり寄っていく。
「ひっ……!」
セリナの顔が恐怖に引きつった。僕の後ろにいたミリアもいつでも飛び出せるように、身構えている。
僕は静かに、男たちの前に進み出た。
「……あなた方。彼女に何か御用ですか?」
「ああん? なんだ、てめえは。こいつの新しい男か?」
「僕は彼女の、新しいビジネスパートナーです。彼女に乱暴な真似をするのは、やめていただきたい」
「はっ、ビジネスパートナー、だと? 笑わせるんじゃねえよ、ひょろっとしたガキが!」
男は僕をせせら笑うと、僕の胸を乱暴に突き飛ばした。
だが僕は、一歩も動かなかった。
「……忠告はしましたよ」
僕がそう呟いた瞬間、僕の後ろに控えていた村の自警団の若者二人が、音もなく男たちの背後に回り込んでいた。
「なっ……!?」
男たちがその気配に気づいた時には、もう遅かった。
一瞬の閃光。若者たちの剣の柄が男たちの鳩尾に、正確に、そして容赦なく叩き込まれる。
「ぐえっ……!」
三人の男たちは短い悲鳴を上げる間もなく、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
あまりにあっけない幕切れだった。市場の喧騒の中で、僕たちの周りだけが時間が止まったかのように、静まり返っている。
セリナは目の前で起こったことが、信じられないといった顔で僕と、倒れた男たちを交互に見比べていた。
「……大丈夫ですか、セリナさん」
僕が優しく声をかけると、彼女ははっと我に返った。
「あ……は、はい……。ありがとうございます……。あの、あなたは一体……」
「僕はリオ・アークライト。聖獣特区の領主です。そしてあなたと、あなたのその誠実な商いを守ることを約束します」
僕は彼女に向かって、手を差し伸べた。
「僕たちと手を組んでくれませんか? 共にあの悪徳商人に、立ち向かいましょう」
僕の言葉に、セリナの青い瞳がみるみるうちに、潤んでいく。
それは恐怖や、悲しみからではない。希望の光を見出した喜びの涙だった。
「……はいっ……!」
彼女は力強く、何度も頷くと、僕が差し出した手をその両手で、固く、固く握り返した。
こうして僕たちは、初めての信頼できるビジネスパートナーを得た。
それは巨大な商業ギルドの影に、ささやかな、しかし確かな反撃の狼煙を上げた、記念すべき瞬間だった。