第15話:兄と弟
深い霧の中、僕と兄のバルドは静かに対峙していた。
周囲には僕たちの他に誰もいない。
いや、いるのかもしれないが、この濃い霧が世界から僕たち二人だけを切り離してしまったかのようだった。
バルドは僕の姿を認めると、その顔を屈辱と怒りに、さらに醜く歪ませた。
「……リオ……! 貴様、よくも……!」
その声は、怒りに震えていた。
彼は腰に下げた魔法の力が込められた長剣に手をかけている。今にも抜き放たんばかりの気配だった。
しかし、僕は落ち着いていた。
僕の後ろには、守るべき大切な仲間たちがいる。
その事実が、僕に今まで感じたことのない勇気を与えてくれていた。
「兄さん。もう、やめてください」
僕は、力ではなく言葉で彼に語りかけた。
これが最後の対話になるだろうと、直感的にわかっていたからだ。
「この村は、僕の大切な場所です。ここに住む人々は、僕の大切な家族だ」
「これ以上、僕の家族を傷つけるというのなら、たとえ兄さんであろうと容赦はしません」
僕の静かだけれど揺るぎない宣言に、バルドは鼻で笑った。
「……家族だと? 笑わせるな、出来損ないが! 亜人どもを、家族だと? 貴様は、アークライト家の誇りをどこに捨ててきた!」
「誇り……? 力だけを信奉し、自分より弱い者を見下すのがアークライト家の誇りだというのなら、そんなもの、僕には必要ありません」
僕のきっぱりとした言葉に、バルドの顔色が変わる。
僕は続けた。
「兄さん、僕は、ずっと不思議だったんです」
「どうしてあなたは、そこまで僕を憎むのですか? 僕が、あなたに何かをしましたか?」
その問いは、僕がずっと心の奥底で抱き続けてきた、純粋な疑問だった。
そして、その問いこそが、バルドの心の最も柔らかな部分を容赦なくえぐり出したのだ。
「……黙れ」
バルドの口から、低い声が漏れた。
「貴様が……! 貴様がいるからだ……!」
「え……?」
「貴様が、その気味の悪い力で、私の全てを奪っていく! 昔から、ずっとそうだ!」
彼は叫んだ。
それはまるで、子供の癇しゃくのような悲痛な叫びだった。
「父上の関心も! 周囲の評価も! この私が築き上げてきた自信も誇りも! 貴様のその得体の知れない力が、全て台無しにするんだ!」
ああ、そうか。
僕はその時、初めて理解した。
兄は、僕に嫉妬していたのではない。
彼は、僕のこの【土地鑑定】という彼の理解を超えた力に、ずっと恐怖していたのだ。
自分が血の滲むような努力で手に入れてきた剣の技も、魔法の力も、この得体の知れない規格外の才能の前では意味をなさないのではないかと。
その根源的な恐怖が、彼をここまで歪ませてしまったのだ。
僕の言葉が、彼の心の奥底に隠していた劣等感という名の化け物を、引きずり出してしまった。
もはや、彼に僕の言葉は届かないだろう。
「……全て、貴様のせいだ……!」
バルドは、獣のような咆哮を上げた。
ついに、その腰の長剣を抜き放つ。
剣の刀身が赤い光を放ち、炎をまとった。
彼が得意とする、炎の魔法剣だ。
「死ね、リオォォォッ!!」
逆上したバルドは、もはや見境がなかった。
彼は僕に向かって、一直線に突進してくる。
速い。
天才魔法剣士の名は、伊達ではない。
その踏み込みは、僕の貧弱な身体能力では到底避けきれるものではなかった。
僕は、死を覚悟した。
しかし、不思議と恐怖はなかった。
僕が、ここで倒れるわけにはいかない。
僕の後ろには、僕を信じてくれる仲間たちがいるのだから。
バルドの炎をまとった剣が、僕の胸元を捉えようとした、その寸前だった。
僕の前に、突如として巨大な白い影が立ちはだかったのだ。
ゴォンッ!!
金属と何かが激しくぶつかり合う鈍い音が、霧の中に響き渡った。
その影の正体は、言うまでもない。
「……ハク……!」
巨大な聖獣の姿に戻ったハクが、その鋼鉄よりも硬い体で、バルドの渾身の一撃をいともたやすく受け止めていたのだ。
バルドの剣はハクの体に傷一つつけることができず、逆に、その衝撃で甲高い音を立てて砕け散った。
「……なっ……!?」
バルドは、信じられないという顔で自分の折れた剣と、目の前に立ちはだかる巨大な聖獣を交互に見ている。
決着の時は、あまりにもあっけなく訪れようとしていた。