だから私は私を殺す
憧れとは誰もが持っているものだと思う。別にそれが実在する人物であるか、漫画やアニメのような空想の産物であっても関係ない。あのようなキラキラした人生を送ってみたいと願うのは人としてのサガであろう。
物語のヒーローやヒロインはいつだって魅力的で人々を惹きつけてやまない。そして物語の主人公で良くあるのが、ある日突然異界に召喚された系だ。古くからある設定であり、今では召喚されたのではなく、生まれ変わるといった異世界転生物も数多くある。
根強くこのジャンルが今の今まで続いてきているのは、もちろん抗いがたい魅力に溢れているからだ。突然一般人が別世界に行って大活躍する。
元は一般人、重要なのはここだ。
一般人とはすなわち私も含まれる。私は自他ともに認める平凡な一般人なのだから。だからひょっとしたら本当にそのような異世界があって、ある日突然自分が選ばれるかもしれない。そんな夢を与えてくれる異世界ものは好きだった。
私もああなりたい。
あのキャラになってみたい。
そんな夢に心を馳せたのは遠い過去の事。今、私は一国の王妃となっている。アルビオン国の叡智、エレオノーラに。そう、私は異世界転生をしたのだ。私はある日突然選ばれし者となった。
姿見を覗くと美そのものを体現したかのような整った顔があり、それでも近寄りがたさを感じさせない温和な笑みが張り付いている。前世を思い出したのは幼少の頃で、自分の顔に驚いたものだが、今でも全く慣れる事はない。
その美しい顔に少しでも昔の自分の顔の欠片を見つけられたのであれば、まだ自分の可能性の内の一つだと納得は出来たのだろう。どれ程細い線であろうが0%ではない。それが大事。それだけで救われる。
しかし私は慣れる事がないと先ほど言った。つまりはそういう事だ。
叡智と呼ばれている時点で察していると思うが、私はいわゆるやり遂げた側の人間だ。それも思いつく限り最高の結果を出したと言えるだろう。
賢王と呼ばれる優秀な夫と愛しき子供達、王家を支える者達も優秀な者ばかりだ。隣国との関係も最善とまではいかないまでも、戦争が起きるようなほど劣悪でもない。むしろ昔の一瞬即発の状態を考えたら、よくぞここまで改善したものだ。
もしも誰かが私という物語を見ているのだとしたら、大団円のハッピーエンドと思うだろう。その証とでも言おうか、私と夫の若き頃の話を本として出版された事もある。
良くも悪くも大げさに脚色された私達の物語はとても市民受けが良く、また王家としても支持を固める絶好の機会でもある。結果として私達をモデルとした物語は一冊のみならず、何度も何度も形を変えて出版された。
善政を敷いている前提ではあるがこうした宣伝もあって、今となっては私達王家の国民の人気は絶大なものとなっている。
何と言う煌びやかな世界、主役と言うのはここまでのものなのか。
姿見の中の自分は理想を体現し続けている。私がこの笑みを嫌いになったのはいつの頃だったろうか。それこそ初めからだったかもしれない。当時は必死過ぎて気づいていなかっただけの事。
今でこそ暇を享受しているが、私のこれまでの半生はまさに激動そのものであった。
異世界転生をした私には大きな二つの幸運があった。それはこの世界がとあるゲームをモチーフにした世界であった事、そして前世の私がそのゲームをプレイ済みであった事。
近くにいる者達にゲーム内のネームドキャラが多かったのもあり、割と早くにゲームの世界であると気づけたのは幸いだった。しっかりと全クリまでした私はこの世界で何が起こるかをほとんど把握できている。知識は最強の武器だ。未来を知っているアドバンテージは計り知れない。
このゲームの俗にいう乙女ゲームで、ヒロインに扮したプレイヤーが、美麗揃いの攻略対象の中から一人を選び、恋人同士になるハッピーエンドを目指すと言うものだ。だが私自身はそのヒロインではなかった。
だからといってただのモブという訳でもないのだが、いっそモブであった方がどれだけ良かったか。というのもゲームにおける私、エレオノーラに与えられた役割は悲惨極まりない。何せゲーム本編が始まる時、私はすでに故人となっているのだから。
エレオノーラは王子の最初の婚約者であり、婚約者であった私を守れなかった事から王子は深い心の傷を負うのだ。つまりエレオノーラの役割とは、攻略対象の一人である王子のトラウマとなる事。
私が死ぬ理由は一言で言えば政争によるものだ。この世界のベースとなったであろうゲームはバックボーンがしっかり作りこまれていて、そうした細部まで拘った姿勢が登場キャラに魅力を生み、人気を博した。
表ではヒロインと攻略対象たちが青春を謳歌していても、裏では色々と動いており、利権の争いや、貴族間のしがらみ等、黒い話は山ほどある。
私、エレオノーラが狙われたのもそうしたものの一環であった。私が王子の婚約者に選ばれると貴族間のパワーバランスが大きく変わる。当然それを面白くないと思うのはいるわけで。
しかしながら王子も愚か者ではない。彼は状況を正しく理解していたし、だからこそ全力私を守ると約束してくれた。しかし反対派の貴族の力は強大で、私は亡き者にされてしまう。そこで王子は自分の慢心を思い知らされるわけだ。
守ると言ったのに何もできなかった無力感、王子は絶望と悲しみで立ち向かう力を失ってしまう。このまま傀儡の王になると思われた時、ヒロインと出会って光を取り戻すという流れ。
どこに転生したのか気づいた時、よりにもよってこの世界と頭を抱えたが、このまま何もしないでいると私は殺される。それを自覚した瞬間、私はすぐにでも動く事を決めた。シナリオなんてくそくらえ。謀殺されるなんてまっぴらごめんだ。
ゲームの世界を楽しもうという気持ちは微塵もなかった。自分の命がかかっているのにそんな余裕あるわけない。魔王みたいな分かりやすい悪がいれば楽なものだが、私の場合は黒幕以外にも敵は多くいる。貴族の派閥は数多く存在するのだから。
もちろん婚約を辞退する事も考えた。今世の家族仲は良好であったし、断ろうと思えば断れるだけの力が我が家にはあった。だが私が退場の意を示しても、話はそう簡単には終わらない。婚約者候補に選ばれた時点で利用価値ありと見なされてしまうのは自明の理。
辞退したら辞退したで、私を得て取り込んでしまおうと動く輩は絶対いる。色んな派閥から粉をかけられるこっちの状況の方がより危険だと思った私には、王子の婚約者として戦うしか道は残されていなかった。
幸いだったのは私自身、王子をちゃんと愛せた事だ。ゲームでやっていたころから好みであったが、愛せるかは別問題だと思っていた。特に当事者となってしまった私としては、王子自身に非はないとは言え、彼の青臭い理想によって死ぬ事になるのだから、複雑な思いを持つのは当然だろう。
でも王子はその時出来る最善を尽くしていたし、甘いというのなら王家や我が家だってそう。私達より影響力がある大人達でも守れなかったのだ。幾ら優秀でも当時子供であった王子だけを責めるわけには行かない。
色々理由を探してはいるが、結局のところ、絆されたのである。どこまでも真摯な彼に私はその手を取る事を決めた。
覚悟さえ決めてしまえば後はもうがむしゃらに進むだけだった。王子の婚約者としてふさわしくあるよう実績を積み、敵対者の動向には細心の注意を払う。
気の抜けない日々に精神をすり減らし、僅かばかりの彼との会合で気力を養う。そんな日々が延々と続く。
表向き平穏に見えて、その裏では常に死の危険が付きまとう。表と裏の顔を使い分ける貴族社会と言う闇、終わらない極限状態、きっと昔の私であったら到底耐えられなかったであろう。
しかしながら今の私の体、エレオノーラの才能は素晴らしかった。無限の吸収力に無尽蔵の体力、これが本当に同じ人間なのかと思うくらい、彼女のスペックは桁違いであった。
かつての自分とのあまりにもの違いに苦い気持ちを抱えもしたが、余計な事を考えている暇はないと頭を振る。そうして前を見続けた結果、私は見事運命の日を乗り越え、己の死の運命に打ち勝った。
だが喜んだのは束の間の事、問題はなおも続いていく。
これだけ頑張っても、結局はゲーム本編開始前なのだ。そしてゲームの主人公は私ではなく、ある日学園に特待生でやってきた平民の子だ。
本当にこの世界にヒロインなるものは存在するのか。もしもヒロインなるものが学園に入学してきたら、どのような行動を取るのだろうか? ゲームとは違って私は生きているが、それでも王子とヒロインは惹かれ合ってしまうのだろうか? 物語のように。
彼の事は信じてはいるが、どうしたって気にはなる。私の胸の内に新たな心労が追加された瞬間であった。
今までは明確に敵意を持つ者達が相手だったから良かった。彼と手を取り合って戦う事が出来た。だがヒロインは善人で悪い事するわけではない。ゲームの主人公として、システムが彼女を贔屓するかもしれないなんて話しようがない。そんな良く分からない理由で、彼が自分を裏切るかもしれないと疑っているなんて、普通に考えて正気じゃない。
だからこそ私はその不安を心に抱える事しか出来なかった。
死の運命を乗り越えたと言っても政敵は未だに存在する。ヒロインの動向も気になる。いっそ良い悪い関係なく排除できるほど冷徹であれたのなら。私はそう思っても、エレオノーラがそうさせてくれなかった。
彼女の光を曇らせるなんて事はあってはならないのだから。だから私は鏡の前で微笑む。優雅に。朗らかに。美しいエレオノーラにふさわしい顔を作る。
今度はゲームの強制力が敵となるかもしれない。決死の覚悟で臨んだ学園であったが、結局私の不安は杞憂であった。ヒロインはそれこそゲームの主人公そのまんまの善性の塊だったのだ。
ゲームだと王子が病んでいたので手助けしただけで、私が生存している今の世界ではむしろ彼ではなく、私によく懐いてくれた。むしろ問題はヒロイン以外にこそあった。
別の令嬢が王子と密室で二人になろうとしたり、私の方に別の男をあてがおうとしたり……
学園生活送っている今こそがチャンスとばかりに、私と彼の仲を気に食わない派閥の者が私達を引き裂こうと躍起になった。
明確な悪意があれば簡単だが、表向きの理由は親睦を深めたいとなっている。ただ話しがしたいと言われれば無下にも出来ないわけで。
また家柄関係なく個人の考えで動く輩もいるのが頭の痛い所であった。幼稚な故に行動が読めないのはかえって恐ろしい。その場の思い付きで行動される事ほど嫌な事はない。
学園で試されたのは綿密な計画性ではなく、突然起きるハプニングに対応出来るだけのアドリブ力だった。
権力を使って黙らせる事も出来なくはないが、学園は大人は先生のみで後は子供しかいない閉鎖空間だ。話も聞いてくれない冷徹な女と言われるデメリットも馬鹿に出来ず、対応を余儀なくされる。
いい加減疲れてきた時、助けてくれるのはヒロインの子であった。上手く会話の途中から入ってきてくれて、私にフォローを入れてくれる。これに何度助けられた事か。
一時の迷いで愚かな手段を取らなくて良かったと心から思った。
私が平民であるヒロインを近くに置いている事は、貴族である事に誇りを持っている者達から少なくない反発を生んだ。しかしそれ以上に家の格で差別をしない様が公平さをアピールする事に繋がり、結果として優秀な人材が集まったのは嬉しい副産物であった。
そう、能力のある者は己に自信があるため、あまり肩書にこだわらない。己に自信がない者こそ肩書を重視するのだ。意図した事ではないのだが、私がヒロインと友情を育んだ事は、結果として優秀な貴族とそうではない貴族のふるい分けにもなったのだ。
そして能力がある者達は自分の位よりも、今自分が持っている能力が正しく評価される事を好む。ヒロインの実力を差別なく正しい目で見抜いた私達に集まってくるのは当然の帰結であった。
こうして心強い仲間を得た後の私は一気に勢いづき、敵対勢力なぞものともせず、そのまま学園生活を走り抜く事が出来た。
そして2つの大きな試練を乗り越えた私はついに彼と式を挙げる事となった。まさに幸せの絶頂だったろう。その日は目に映るすべてが自分を祝福しているように思えた。
だがそれこそが真の地獄の始まりだった。
私がそれに気づいたのは何気ない一幕からだ。彼が王となり、私が王妃となった後の事、私と彼はとある人物を表彰するために王城に呼んでいた。国に潜伏していた工作員を見つけ出し、隣国との戦争を未然に防いだ彼を見た時、私は唖然としてしまった。
知る顔だったからではない。知らない顔だったから私は驚いたのだ。
この時私は自分の中にある歪みを認識した。ゲームとしてこの世界を履修していた私はほとんどの重要人物の名前を知っている。もちろんゲーム内では学全ての人物に名前があるわけではないし、いわゆるモブの存在は数多くいた。
しかし国の存続にかかわるような重要な案件においては、文字だけの存在であっても必ず名前が与えられていた。だったら知らないわけがないと、私がどれだけ記憶を辿ってみても、国を救って見せた彼はまったくの初見であった。
そこまで至って私はようやく気づいたのだ。
物語はゲームのエンディングの先へと行ってしまったのだと。その事実は頭を殴られたかのような衝撃であった。ここから先に制約なんてものは存在しない。何をするのも自由だ。
自由、その言葉は基本的には良い意味で使われる事の方が多い。だがそれは伴う責任を考えなければの話だ。今の私の私の人生だけではない。国の未来もかかっている。その圧倒的な重圧に潰されてしまいそう。
もうこの先、私を助けてくれた道標は存在しない。
決して楽な人生を送ってきたわけではない。それこそ全力を尽くしたと断言できる。だがそんな私が必死で生き抜いた今まではただのチュートリアルにすぎなかった。
これからの決断は私自身でしていかなければならない。
突如、暗い闇の中に一人落とされた私は途方に暮れた。深い絶望感に苛まれる。これから私は一体どうすればいいのか?
目の前にそびえたつ大きな壁、登り切ったと思った矢先に見えるのは新たな壁、壁があるのならまた登らなければならない。落ちるのは怖いから。
選択肢なんて元から一つしかなかった。
それをひたすらに繰り返して今、私はアルビオン国の叡智とまで呼ばれるようになり、ここに立っている。臆病者が必死に恐怖から逃げ続けた成れの果てだ。
安心を求めて登っているはずなのに、登れば登るほど私とエレオノーラは離れていく。私はとっくの昔に限界で、でも私にとって限界を超えた事であっても、エレオノーラにとっては容易い。
姿見に映る微笑みは相変わらず完璧で、不調をまるで感じさせない。それは私が頑張ったから今の結果になったのではなくて、エレオノーラの元の素養が素晴らしかっただけと言われているようであった。
私が役に立った事と言えば知識があったという事。しかしその知識だって最初のエレオノーラが殺されるという悲劇を超えた後は必要だったか。知識のおかげで優位に進められた事は確かだが、別にこれだけ才気溢れるエレオノーラであれば、知識なんてなくても関係なかったような気がする。
だとすれば私がここにいる意味はあるのだろうか?
役目を終えた私は一体何のために存在している?
「一体あなたは誰なのかしら?」
思わず私は姿見の自分に問いかけた。実にふざけた質問だ。私は私だ。別に別の誰かの声が聞こえるわけじゃない。エレオノーラの中には私しかいない。だったらエレオノーラは私じゃないか。
そんなの当たり前の事なのに、どうして私は自分を惨めに感じているのだろうか。こんなに惨めならいっそ……
「エレオノーラ」
「「お母さま!」」
名前を呼ばれた事でわれに返った私は声のした方へと向き直る。そこには最愛の夫と子供達の姿があった。
我が愛する家族は至極の幸せと、底なしの絶望を運んでくる。何故なら私の夫と子供達は私を一切疑わない。素晴らしい妻(母)であると信じ切っている。その絶大な信頼が心の底から嬉しく、さらなる重荷となっていく。
私は先ほど自分で考えていた事を振り払った。
私は家族の期待を裏切れるほど強くはない。この期待を裏切ってまで我を通す事は恐ろしい。だから私は理想の母の仮面をかぶるのだ。私の内に巣くう、どす黒い感情に蓋をしつつ。
素晴らしいエレオノーラと普通の私、私はエレオノーラの足を引っ張る私が嫌いだ。私との差をまざまざと見せつけ、置いて行ってしまうエレオノーラが嫌いだ。
ずれにずれてしまった私のアイデンティティーは崩壊寸前であった。いつか超えてはいけない一線を越え、全てを台無しにしてしまうのではないか、そんな恐怖が尽きない。
だが私はぎりぎりになってようやく思い出した。この世界にあるであろうたった一つの救いを。ヒロインではないエレオノーラだからこそ選択から除外し、記憶の奥底に封じ込めていた禁じ手を。
その日、私は王都の外れの森にある廃家を訪れていた。もはや家として機能していないのではないかという程の寂れようであったが、私はここに人が住んでいるのを知っている。
この廃家は認識をゆがめられた姿、その本当の姿はとある仕掛けを解き、結界を超えると見えてくる。私は遠い己の記憶を頼りに結界越えへと挑み、見事それを成し遂げた。
結界の先にある本来正しい姿を見せた家は、結界の難解さとは裏腹に至って普通の民家であった。神々しい、あるいはまがまがしいなんて雰囲気はまるでなく、正真正銘ただの家だ。そのチグハグさがかえって異質さを感じさせる。
私の記憶に間違いなければここに彼女はいる。私は緊張の面持ちでドアノブに手をかけた。
「ごめんください」
「おんや? 随分と煌びやかな人が来たと思ったらアルビオン国の叡智様じゃないか。噂では聞いていたがこれ程とはね」
ひねくれた物言いで偏屈、そしてどこか胡散臭いというのがほとんどの人が持つ第一印象であろう。だがこの老婆こそが私が会いたかった人で、私を救ってくれる唯一の存在であった。
「あなたが諦観の魔女様でしょうか?」
「まったく誰がそんなに大層な名前をつけたんだが。わたしゃそんな大それた人物じゃないってのに。ただ長生きだけしているだけの婆さ」
「御謙遜を。隠れ住まなければならない者がいるとすれば、どうしようもない罪人か、稀代の英雄だけです。あなた様が人里離れた場所に結界まで張って住んでいるとはそういう事でしょう?」
「口がよく回るね。罪人の方とは考えなかったのかい?」
「ええ、もちろん。だって私はあなた様がどんな人か知っているから」
彼女こそが私が知っている最後のゲーム知識、隠れショップの主であった。裏設定としてはかつて世界を救う旅に出た英雄のメンバーの一人らしいが、肝心なのはそこではなく、ショップで扱っている物だ。
ここは隠れショップと言うからにはさまざまなチート級アイテムが揃っている。メタ的に言えばやりこみ勢のためのアイテムショップとでも言えばいいか。そして彼女は作中で第四の壁を知っている唯一の存在であり、自分がいるのはゲームの世界と自覚している節があった。
「……ふん、そういう事かい。どおりで結界の通り抜け方も知っているわけだ」
彼女は私の正体すらもすぐに察したのであろう。第四の壁を知っているなら、推察するのは容易という事だろうか。私が何が欲しいと言わずとも、棚から何か液体の入った瓶を取り出す。
「今や国の宝とまで上り詰めた姫さん、そんなあんたがここまでやってきたという事は……欲しいのはこれだろうねぇ」
「流石は魔女様。言わずとも分かっていただけるとは」
「あんたもよく疑いもせずに受け取るね。何の薬とは言ってないし、必要な対価も話してないはずなんだがね」
「あなた様の元に辿り着く事は困難。だからこそ見事辿り着いた者には無料で好きなもの一つ、対価が必要なのは二回目以降、でしたよね?」
「読心を使われているわけでもないのに言い当てられるのは奇妙な気分だよ」
これもゲーム内で起きる事の一つ。初回来店特典というやつだ。ゲームではその後どのアイテムを選ぶか選択画面が出るのだが、そこで欲しいアイテムを選ぶと魔女様は『○○が欲しいんだね。うん? 何でまだ言っていないのに分かるのか? 伊達に年食ってないって事さ』と言う。
プレイヤーは自分で選んでいるのだが、ゲーム内では欲しい物が先読みされていたという体になっているわけだ。本人は否定こそするがやはり魔女であると分かる良い演出だと思う。
そして今の私はそのゲーム内の登場人物となっており、ゲームの中の世界こそ私にとっての現実、故に今目の前にいる魔女様だって現実に存在する本物だ。だったら私は何が欲しいと口にする必要はない。渡された薬を素直に受け取るだけでいいのだ。ヒロインのように。
「あるいはこれもシナリオと言う奴の一部なのかい?」
「いいえ、今はすでにシナリオの先まで進んでいます。フィナーレはとっくに昔に終わっているんです。でもゲームと違って人生は続くわけですけど。それに私はそもそも主人公ではありません。正直主人公ではない私があなた様に会えるか半信半疑ではありました」
「私が薬を授けるのはここに辿り着いた者だからね。そこに例外はないさ」
性格や事情は関係ないと魔女様は笑う。実にシンプルな基準に思わず私もつられてしまった。魔女様には王妃だろうが平民だろうが関係ないのだ。
「しかし難儀なものだね。あんたは世間から見れば最高の人生を歩んでいる。でも当の本人が幸せを享受できないとはね」
「私の心がもっと強くあれれば良かったのでしょうけど」
この選択肢しか選べなかった事を自嘲してしまう。だが魔女様はそんな私を否定しなかった。
「うんにゃ、自分を自分と思えないなんてのは地獄でしかないさ。こんな薬渡した後でなんだけども、わたしゃあんたのその歪さは美しいと思うよ。その歪さを抱えたまま長い間生きてきたんだから大したもんさ。今までよく頑張ったね」
彼女のねぎらいの言葉は私の隅々までに染みわたった。今世になってから褒められた事は沢山ある。でもどこか他人事で。本当の意味で私を知る彼女の言葉こそ、私は嬉しかったのだろう。
「ありがとうございます。そう言っていただけると『私』も救われます」
「ゆっくりお休み」
魔女様は最後の最後まで優しさに溢れていた。
その日の夜、私は晴れ渡る気持ちだった。魔女様の薬はとうの昔に飲んだ。いざその時が来たら少しは躊躇するかと思ったが、思いの外すんなり飲めてしまった事に私は失笑してしまった。こうもあっさり捨て去ってしまえるなんて、今まで必死にしがみついてきていたのに不思議なものである。
飲んでしまった以上、もう後戻りはできないし、後は寝るだけで良い。
そうすればすべてが終わる。
魔女様から頂いた薬は自害するためのものではない。別に死にたいだけだったら苦しむことになるかもしれないが毒を飲めばいいだけだ。だけど私は私の責任を放棄しない。
愛する夫と子供達を絶望に突き落とし、私達を慕ってくれる国民達を悲しませる気は毛頭ないのだ。私が望むのは私の中の不必要な部分を切除するだけ。
それはすなわち前世の私の記憶を消す事。
エレオノーラにとって前世の私の記憶はただの足枷でしかない。私は前世の記憶を持つがゆえにエレオノーラになれないのだ。
だから私は私を殺す。
前世の私をこの世から一切消し去る。
私が望むのは死は死でも精神的な死。
明日の朝、エレオノーラはいつも通りに起きて、いつも通りに王妃として仕事をし、仕事が終わったらいつも通りに愛する家族と過ごすだろう。何も変わらない。私がいなくなっても物語は正しく続く。
王妃として、妻として、母としての責任はこれからもエレオノーラが果たしてくれる。私は誰にも迷惑をかけずに逝く事が出来るのだ。
不思議な気分であった。死への恐怖よりも強い安堵感を覚える。明日、私は自由を得る。死を喜ぶなんて狂っているかと思うかもしれないが、私は転生者だ。前世の記憶を持つというイレギュラーであったが、一度死の先を体験している。どうせ次の生があると楽観的に考えている。
願わくば誰かの人生じゃなくて、私自身の人生を歩める事を。前世の記憶なんていらない。ただ私は私であると信じられる人生を送りたい。
あるはずの明るい未来に思いを馳せる。
私は今世になってから初めて心からの笑みを浮かべていた。
異世界転生は転生した自分を受け入れる事から始まりますが、もしも受け入れられなかったらというIFを書いてみました。惨劇をさけられたのは間違いなく彼女自身の努力ですが、与えられた才能が強烈過ぎて、最後まで自分の中にある認識の差異を埋められなかった。でもそんな彼女だから最高の結果に至る事が出来たという皮肉。今世の自分を自分と認識できないからこそ、プレイヤーのまま冷静に客観視出来るわけで。
こんな結末になりましたが、筆者的にはこれもまたハッピーエンドかなと思っています。言うなればプレイヤーがゲームを見事クリアし、ゲーム機のスイッチをオフにした感じですかね。ちゃんとエレオノーラを自分と思う段階まで至れたらまだしも、プレイヤーのまま残るのは苦痛でしかないと思いますので。
ちょっと仕事とかプライベートが忙しくて、創作時間がとれない時間が続いてしまい、久々の創作活動となりました。現在途中となっている長編の方は手直ししている最中です。これからちょっとずつでもペース戻していけたら良いなと思っています。
本作をお読みいただき誠にありがとうございました。