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船酔いに少しばかりは慣れ、漁師っていいな、と思える余裕ができてきた頃。
千夏ちゃんとよく話す特定の男がいることに気づいた。いや前から気になってはいたが、とにかく余裕がないから無駄に意識を向けないようにしていたのだ。
瀬川さん。いつもタオルを頭に巻いていて、そこから覗く切れ長の目。ゴツゴツとした海の男っぽくない甘いマスクを持った人だが、力仕事が生業の男特有の発達した胸筋や太く逞しい腕。きっとうちの大学に行けば女の子がキャーキャー言うだろう。
その瀬川さんと千夏ちゃんはよく会話をしているところを見かけるのだ。
ぶっちゃけ瀬川さんのことが好きなのか、聞きたい。でもようやく土俵に上がったところである俺。勝てる見込みのなさそうな相手を前に、自分の不利を突きつけられたくない。そしたらきっと心が折れて、仕事が続けられない。でも尻尾を巻いて逃げるなんて俺のプライドが許さない。俺だって千夏ちゃんが好きなんだ。それにまだ負けたと決まったわけじゃない。
船酔いのようにグルグル廻る思考のせいで溜まる一方の焦燥感に負けた俺は、結局『瀬川さんと仲良いの?』という一言を発するだけで精一杯だった。
『あー、歳近いから』と、短い一言がアッサリ返ってきただけだった。ホッとしたような気持ちになったが、まだ負けも勝ちも確定していないぞと再びモヤモヤを育てることには変わりがなかった。
千夏ちゃんの反応がアッサリしていたため、これ以上突っ込むわけにはいかない。おそらく俺と出会う前に関係性を築いているのだろう。それを後から来た奴にどうこう言われるのは嫌だろう、そんな奴になるわけにはいかないと思い、俺はひとまず瀬川さんと仲良くなってみることにした。
仮にもライバルだと思っている男である。しかもイケメンマッチョ。勝ちたければ敵を知ることだ、この世は情報戦だ、なんて偉い人も言っているのだから、牙も下心も隠して俺も挑戦せねば明日はない。
結論から先に言うと瀬川さんはいい人だった。
俺は探偵のような技能はないから『千夏ちゃんって凄いですよね』という遠まわしなジャブしか打てなかったが、彼がそこから話を広げてくれた。
「ちなっちゃんはお父さんが漁師だしね。特に関係なかったのに蓮くんも凄いじゃん」
「いやー、まだ吐いてますけどね。千夏ちゃんとか瀬川さんちみたいに早くから乗ってたら慣れるもんですか」
「小さいときから乗ってるからそりゃ慣れるよ。でも蓮くん最近あんまり吐かなくなったよね。仕事も続いてるし。ちなっちゃんが連れて来た子って大体続かないから、続いた子って初めてかもしれない」
瀬川さんは笑いながらそう言った。
やはりこの地にも俺のように下心から乗船した奴がいるのか。しかも続かなかったと。俺は簡単に上機嫌になり、話は他のことへと流れていった。
ちょいちょい千夏ちゃんの話題にしようとはするのだが、蓮くんは凄いよね、って話にされるというかしてくれるし、イケメンの笑顔の破壊力が凄くてドギマギしてしまって、初心を忘れてしまう。
思ったよりも捕れたと喜ぶ千夏ちゃん。
よくわからない魚が跳ねて俺の顔面を直撃したのを見てギャハハと笑った千夏ちゃん。
俺が無様に吐いたときに背中をさすってくれた千夏ちゃん。瀬川さんも。
頭をずぶ濡れにして下船した俺にタオルを投げてくれた瀬川さん。
初めて競馬に連れて行ってくれた瀬川さん。途中から瀬川さんとの楽しい思い出が増えている。ライバル視していたのにお友達みたいになっちゃって、憎めなくなってしまった。
最初は受け入れてくれつつもどこかよそよそしかったお父様。だけど話しかけてくれる機会が徐々に増えて、お父様って呼ぶと毎回ニヤッとするのが面白くて何度も呼んだ。スーパー銭湯に連れて行ってもらったときに見た筋肉は予想通りに分厚くて、満遍なく日焼けしていて、プロレスラーみたいですごかった。つい自分の身体と比較してしまった。
お母様とおばあ様は最初からよく話しかけてくれた。方言が聞き取れなくてすみません、と素直に言うと直してくれるのだが、やっぱり聞き取れないこともあり申し訳なかった。でも沢山会話した。居候なのにご飯も沢山食べさせてくれて、毎日身体を気遣ってくれた。
おじい様も元漁師で、初めて海に落ちたときの体験談は怖かった。もしおじい様がそこで死んでいたら、今目の前にいる家族は全員存在していないのだと何度も言っていた。人間は陸の生き物。海は別世界。危険と隣り合わせの職業なのだ。
千夏ちゃんが台所に立っている。アッシュブラウンの髪を結って、動くたびにふわりふわりと揺れている。お母様のキャラクターつきエプロンだけが千夏ちゃんの服のテイストから浮いているのが逆に可愛い。
お父様とリビングで寛いでいる最中だが、どうしてもそっちが気になる。手際の良い千夏ちゃんを見ていると、ベタな妄想だが新婚さんみたいで勝手に楽しくなった。
海の幸とは全然関係のない豚肉と卵入りのそうめんチャンプルーは、舌に沁みる美味しさだった。おかわりした。
俺は明日、一人で新幹線に乗る。
元々二人で帰るつもりではいたが、俺の課題の都合でどうしても帰らなければならず、当初約束した二十日間に三日を足した二十三日を船上で過ごした。
既に実家に色々送ったにも関わらず、まだまだ荷物に入るだろうと乾物などを山ほど持たせて貰った。服やノートの間に袋入りの昆布やら何やらが挟まっている状態のスーツケースを持ち、千夏ちゃんの運転で家を後にした。
なぜ入り口の外にもう一つ入り口があるんだと騒ぎすぎて千夏ちゃんに爆笑された、あの角のコンビニを通り過ぎたら新幹線の駅だ。
「来たときもそうだったけど、あんまり人いないね」
「いやー、多い方だよこれでも。何飲む?」
千夏ちゃんはちょいちょい紳士だ。俺に何か教えるときや、ものを渡してくれるタイミングがスマートなのだ。
いつも後手に回ってしまう俺は自分で買うよ、お金払うよと言ったが、もうお金入れちゃったからー早くー、と急かされて結局奢ってもらうことになった。
「蓮くんめっちゃ日焼けしたね。筋肉ついた」
「そうだねー。瀬川さんには全然負けるけど」
「瀬川さん結婚してんの知ってた?」
「えっ!!」
初耳だ。俺が鈍いからだろうか。いや、休憩中は食事を終えたら大体すぐにぐったりとして眠っていたからだろうか。
「あの人ちょっとイタズラっ子だかんね。あたしについてきた男らって大体瀬川さんとあたしの関係疑うんだけどさー、毎回わざと黙って反応見て遊んでんだよ。蓮くんもハメられたね。ウケる」
ウケないよ千夏ちゃん。めちゃくちゃ徹底している瀬川さんのからかい方に、俺は戦慄しつつ感心したような妙な気分になった。
「ゴメンって言っといてーって言われた。自分で言えし」
──本当だよ。
「瀬川さんめっちゃ美人の奥さんと高校卒業してすぐ結婚して、もうお子さん三人もいるんだよ。めっちゃ可愛いよ」
「千夏ちゃんの方が可愛いよ」
動揺した俺は動揺ついでにブッ込んでしまった。このタイミングで良かったのかは今考えてもわからない。
千夏ちゃんはこっちを見て目を丸くしたあと、ニヤッと笑った。
「いいこと言うじゃん。蓮くんもかっこよくなったよ。あたしさー、早く子供欲しいんだよね。船乗りの旦那の奥さんと子供ってよくない?」
子供が欲しい、の一言を聞いた途端、頭部と顔に血が集まってしまった。
ただでさえ新幹線のホームは蒸し暑いのに。熱中症になってしまう。
俺の顔を覗き込んで笑う20cm先にある千夏ちゃんの顔は、お父様の面影がある。お父様なのに可愛いとはどういうことだ。
「もし船乗りになったら一生そうめんチャンプルー作って網直してあげよっかな。また来るっしょ? 冬の漁は本番だよ。超楽しみ」
乗車の列が作られていく中を慌てて並んだ。ショートパンツの千夏ちゃんが離れていく。今日も綺麗な背中を惜しげもなく披露している。送って行かなくて大丈夫かな。あ、俺が送られてる側だった。
席についてもまだホームに居てくれた千夏ちゃんは、可愛いく手を振っている。俺も笑って振り返したつもりだが、きちんと笑えていたか自信がない。
──船乗りになったら。俺が? そしたら一生、一生って? そういうこと?
俺はこんなに恋愛ベタな奴だっただろうか。
千夏ちゃんの家族と一緒に過ごした、物の多いリビング。いつも何となくついているテレビ。何度も歩いた板張りの廊下。いつも同じところを踏むたびギッと鳴る。
タバコを吸う瀬川さんの渋い横顔。車のハンドルを回す日焼けした筋肉質な腕。
でかい声で笑う漁師のおっちゃん達。肩を叩かれたときの分厚い掌と、ちょっと強すぎる衝撃。
胡座をかいて、一生懸命網を直す千夏ちゃん。ご飯が美味しいと言ったら、頬杖をついて会心の笑みを浮かべていた。
見慣れた人々と景色を思い出す。あそこで一生。
大学はちゃんと卒業した方がいいよな、なんてプロポーズされたわけでもないのに、捕らぬ狸の皮算用を始めている自分に無言で突っ込んだ。
あるはずだった自信と、平衡感覚と、心を狂わせられた夏が終わった。
ま、とりあえず冬だ。冬に考えよう。
寒いだろうだなー。冬の日本海って。
読んでくれてありがとう美しいお嬢さん!
これを書こうと思ったとき、ガチの乗船仕事を探してました。乗れたら乗っちゃってただろう。そんで吐いて後悔すんの。
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