名もなき女神はサービス過剰
ボチャーン!
大きく重い斧が、湖に飛び込んだ。
もちろん、斧は身投げなんかしない。
斧を手にしていた男、元木こりの男が投げ入れたのであった。
しばらくすると、湖の底から一人の美しい女神がせり上がって来た。
「貴方が落としたのは、この金の斧? それともこちらの銀の斧? もしかしてこっちの銅の斧? あら? 反応が無いということは、意外にもお洒落重視のプラチナの斧?」
「……」
男が絶句していると、女神は更に被せて来る。
「まさか、隣国で開発されたばかりの合金製の……」
「いや違いますけど……そんなことより、腕何本あるんですか?」
右手に金の斧、左手に銀の斧を持っているところまではともかくとして、金銀の斧はそのままに、三本目の腕で銅の斧を、四本目の腕でプラチナの斧、五本目の腕で合金の斧を持っているのだ。
「あら、私こう見えても、けっこう修行熱心でスキル豊富なの。異宗教交流のお陰で千手観音のスキルを習得済みよ。千本まではイケるわ」
千本の腕が最終的にどんな様子になるのか見てみたい気はする。しかし、ここまで用意周到ということは、おそらく自分の斧は千一本目。あまり手間をかけさせるのも申し訳ない。
「わかりました。俺が落としたのは、ごく普通の鉄の斧です。
しかも、もうボロボロで、やけになって捨てたんです。
違法投棄は謝ります。だが、拾ってもらう必要もありません」
「えー! これから正直者の貴方に、千本の斧を授けようと思ってたのにー!」
「いや、千本もいただいても。持って帰るのも無理ですよ」
「少しずつ持って帰って、売ればいいじゃない」
「木こりしか能のない俺じゃ、商人に足元見られて買いたたかれます。
あぶく銭とともに、騙された嫌ーな気分が残るのも面白くないでしょう」
「あら、ずいぶんと世を儚んでいるわね。
とりあえず、身の上話を聞きましょうか」
女神は湖から上がると、大きな石に腰かけた。
神話時代からの装束は露出が高めで、魅惑的なボディラインが迫って来るようだ。
木こりは自然と目を伏せた。
身寄りのない木こりは、村の隅でひっそりと生きてきた。特に仲間外れにされたとか、酷い目に遭わされた覚えはない。しかし村の人口が増えて土地が足りなくなると、独り者の木こりはなんとなーく居づらい雰囲気になって、いつしか森の入口で暮らすようになっていた。
「えっ!? それってひどいじゃない。真面目に働いてたんでしょう?」
「村に木こりは俺一人だったから、以前はそれなりに認められてたんです。
だけど、村長の娘婿の実家が、町の材木商で」
家の建築や修繕に使う木材も燃料用の薪も安く手に入るようになり、木こりの仕事は無くなった。
「世知辛いわねえ」
「仕事も無いし、もう斧もいらないんです。
それで湖に投げ込みました。本当に済みません」
「まあ、やってしまったことはしょうがないわ。
それより貴方、斧を捨ててどうやって生きていくつもりだったの?」
「……」
「まさか」
「斧の後を追って、俺も湖に飛び込むつもりでした」
「なんてこと!」
「こんなに綺麗な女神さまがいる湖だっていうのに、俺は何という罰当たりな……」
「今、なんて?」
「罰当たり」
「そこじゃなくて、どんな女神がいるって?」
「すごく綺麗な女神さま」
「あら、あら、あら、どうしましょう!?
ここ三百年ほど、誰も来なかったのよねえ。
やっと来てくれたら、こんなに褒められちゃったわ!」
「すっかり働き方も変わってきて、こんな山奥まで来る奴はいないですね」
「女神業にも、世間の波が押し寄せてたのねえ。
それはともかく、世を捨てる覚悟をしたのなら、しばらく、このあたりにいなさいよ」
「このあたり?」
「ええ、この湖なら魚も獲れるし、近くの森で木の実も採れるわ。
しばらく、のんびりして心身を休めなさいな」
「ああ、女神さまは姿だけじゃなくて、心も綺麗なんですね」
「あら、もう、いやだわ!」
「それじゃあ、お言葉に甘えることにします。
ところで……」
木こりは口ごもった。
「あら、どうしたの遠慮なく言ってちょうだい」
「ずっと野宿も何なんで、小屋を建てたいんですが」
「ああ、そうね、斧がいるわね。
私のお薦めは、錆びにくくて手入れが楽で切れ味長持ちの合金製のコレね」
女神ははい、と斧を手渡した。
ついでにDIY用具一式の入ったバッグも。
「何から何まで、ありがとうございます」
「いいのよ、いいのよ。私も話し相手が出来て嬉しいわ」
それから男は小さな小屋を建てた。
そして魚を釣り、木の実を採り、たまに湖から上がって来る女神と一緒に食事をし、あっという間に十年が経った。
ある日、男は言った。
「女神さま、ずっとこの聖域のような場所で世話になってきましたが、いつまでもここに居ていいんでしょうか?」
「まあ、居心地悪くなった?」
「いや、居心地よすぎて申し訳ないくらいで」
「何言っているの。誰も来ない湖で、ずっと私の話し相手をしてくれたじゃない。私はとても嬉しかったのよ」
「本当に?」
「本当よ。でもね……」
いつも闊達な女神が珍しく口ごもる。
「ひとつだけ、貴方に謝らなければいけないわ」
「何ですか?」
「ここに貴方が来てから十年経った、と思っているでしょう?」
「はい」
家を建てた時の廃材に、一日ずつ刻みを入れて時間の経過を計っていた。
それによれば、丁度、十年が経過しているはずだ。
「貴方が三百年ぶりの訪問者で、もう誰も来そうにないから、本当にここを結界で覆って聖域化していたの」
「え?」
「この中では十年でも、結界の外ではもう百年経ってしまったのよ」
「百年……」
「貴方を知る人も、もう誰も生きてはいないわね」
「女神さま」
「もし、人里でやり直すなら、新しく人生を始めることが出来るわよ」
「意気地がないと思われるでしょうが、木こりとしても時代遅れになってた俺が、今更、人に馴染めるかどうか」
「……もう一つ、選択肢があるわ」
女神は、どこか自信なさげに話し始めた。
「結界内で十年、綺麗な水と、綺麗な魚と、綺麗な木の実を口にしてきた貴方は、生身のまま天界に行くことが出来るの」
「天界?」
「湖の女神としての役割は、もう必要ないから。一度、天界に帰ることにしたのよ。
……もしも、貴方が嫌でなければ一緒に」
「一緒に行きます!」
女神は驚いて顔を上げ、男の目を見つめた。
「湖に飛び込もうとした俺は、言ってみれば、女神さまに命を捧げようとしたようなもの。
どうか、一緒に連れて行ってください!」
男が住む小屋の中には、時々一緒に食事をするための食器が二組ある。
二枚の皿、二個のコップ、二本のナイフ、二本のフォーク。
男が木材を使って、丁寧に丁寧に作ったものだ。
女神さまが居たから生き永らえた。
村で不要になった自分に居場所を与え、幸福を教えてくれた。
もしも許されるなら、今後は女神さまの僕として尽くしたい。
男は、そう思っていた。
女神は微笑んだ。
「善は急げ、よ。早速、天界に行きましょう!」
女神の差し出した手につかまると、ふいに景色が変わる。
地面は無く、辺り一面雲の海。
だが不思議なことに、ちゃんと歩ける。
しばらく歩くと、巨大な雲の玉座に座る大男が現れた。
「お父様! お久しぶり!」
「おお、湖の! 元気そうだな」
「もう、斧を湖に落とす木こりは現れないので、仕事を畳んだわ」
「そうか。ところで、その人間は?」
「最後に斧を落とした木こりよ。私の伴侶にするため、連れてきたの」
え? 伴侶? 従者のつもりだった男は、女神と主神を見比べた。
「なるほど。自分で選んだ男なら間違いあるまい。
では、祝福を与えよう」
主神の指からほとばしる金色の光が、男の身体を包み込む。
「ありがとう、お父様!」
女神は男の手を取った。
「これで貴方も天界の神の一人。
次の仕事は、夫婦で一緒に出来るものにしましょうね!」
「は、はい!」
神様のすることに文句など言えない。女神の夫も、まあ従者のようなものかもしれない。男は状況を受け入れた。
「お父様、何か気になっていることはないのかしら?」
女神は新しい仕事のヒントを探す。
「そうだな。……ああ、人間の世界がずいぶん複雑になってきて、地上にいる神たちでは手の足りないこともあるようだ。
世界中を回って、見落としがないかどうか、人間たちの様子を見てきてくれると助かるな」
「新婚旅行ね?」
「せめて視察と言いなさい」
「ありがとう、お父様」
主神は男に言った。
「どうも、この娘はあまりに世間知らずだ。
一人じゃ不安だが、もと人間のお前がついて行けば何とかなるだろう。
よろしく頼むぞ」
「はい、精一杯努めます」
地上に降りて旅を始めると、すぐに主神の心配がわかった。
千本の斧を授けようとするような女神だ。
とにかく、サービス過剰である。
旅の初日、木綿のハンカチを落とした老婆に、こう言った。
「あなたが落としたのは、この絹の刺繍入り最高級ハンカチですか?
それともレース刺繍の麻のハンカチですか?
もしかして、普通の木綿の……」
夫は慌てて女神の口をふさぐと、老婆に木綿のハンカチを差し出した。
幸いにも耳が遠かった老婆は、丁寧に頭を下げて去って行く。
「女神様、そんなに施しては人間が怠惰になってしまいます」
「あら、そういうものなの? 気を付けるわ」
いきなり抱きとめられて口をふさがれ驚いたものの、それが不思議と嬉しかった女神は、夫の言葉を真面目に聞いた。
宿に泊まれば、夜の食堂で男たちの手拍子に合わせて妖艶に踊ってみせる。
「何をやってるんですか!?」
「何って、人間と馴染もうと思って?」
「酔っ払いを喜ばせる必要はありません」
女神を抱き上げて連れ去ろうとした夫に、酔っ払いたちは文句を言う。
「うちの女房になにか?」
物凄い迫力で言われると、皆酔いが醒めてお開きになった。
女神は夫の腕の中で、ウフフと笑いが止まらない。
そんなこんなで新婚夫婦は旅を続けたが、とりあえずは人間のふりをしなければならない。
職が無ければ怪しまれると、夫は暇暇にいろいろな木製の道具を作った。
木の肌そのままの食器やカトラリー、やがて、人形や動物の像まで。
最初、女神は夫の出店の傍らで、客寄せにジャグリングをしていた。
手は二本の何倍も使ってズルをしているが、高速なので誰も見破れない。
ある時、糸で人形を操る芸人を見た女神は『これだ!』と閃いた。
ジャグリングより千手のスキルを活かす大道芸、見つけた!
幸い、夫は木彫りが得意。早速、人形を何体も作ってもらった。
演目は古い神話。女神だけあって真に迫っている。
彼女の操り芝居を、大人も子供も夢中になって観た。
ある時、山崩れで村を失った一団に出会った。
虫の知らせで逃げ出して、誰一人犠牲にはならなかったが、これからどうして暮らしていくのか、皆で途方に暮れていた。
女神は施しをしようとしたが、夫はそれを止めた。
「彼らは村を失った。一時の施しよりも、生きるための新たな術が必要だ」
夫は、新たな村を作るための場所を得ると、彼等に人形作りを教えた。
山で生きてきた者たちは、木の扱いに慣れている。
勘のいいものはすぐに作り方を覚えた。
女神は、人形の操り方を教えた。
もちろん、基本は一人一体。
千手のスキルは封印し、人間にも出来るように考えながら指導した。
やがて、彼等は人形劇の一座を組み、各地を公演して回るようになった。
演目はおとぎ話。
素朴で暖かい人形劇は、田舎の村々で喜ばれた。
珍しく長い間、彼等はひとところで人間たちと生活を共にした。
別れ際、名前を聞かれて困った。
その場は何とか誤魔化したが、実は女神には名前がない。
二人きりに戻った道中、女神が夫に言った。
「貴方に名前を付けてもらおうかしら」
すると、夫は答えた。
「私の女神は貴女だけ。名前など必要ないでしょう」
「あら、貴方、口がお上手よ」
「そうさせるのは貴女です」
それからも二人は諸国を放浪して歩いた。
困っている人々に少しの手助けをしながら、ずっと仲睦まじく寄り添って。