幼なじみのメイドと主
ヴェルシェント王国の公爵家に使えるメイド、エミリー・ヴェンデルは庭園の手入れを行いながら今日何度目か分からない溜め息をついた。
「はぁ……」
彼女の悩みというのは他でもないこの貴族家の唯一の跡取りにして彼女の直接の主、レオン・V・バルシュミーデの事である。
先日、レオンの婚姻が決まった。相手はバルシュミーデ家よりは下位の貴族だが、そこの次女は王家に召し抱えられており、王に意見具申を進言出来る程の、王にすら認められた才女である。単なる乳兄妹の侍女など到底適うはずもない天上人なのだ。
そう、レオンとエミリーは乳兄妹であった。同じ年に産まれた二人はエミリーの母親が乳母となり、同じ乳を吸い育った。エミリーにとっての直接の主がレオンであるのもそういった理由なのである。
と、ここまで思考が脱線してようやくエミリーは自分がレオンの個人庭園域まで入っていることに気が付いた。
「いつの間にこんな所まで……。少しぼうっとしすぎましたね……。
「おや、これはハイドレインジァですか。確かレオン様が輸入した国ではアジサイと呼ばれていたはずですね。紫の花がとても美しいで……すぅ!?」
エミリーが紫陽花に気を取られ、その花に触れようとした時、葉と葉の隙間から何か白い、二本の棒のようなものが突き出し、彼女は思わずその手を引いた。果たして出てきたのは貝とウミウシを混ぜたような生き物だった。
「スネイル《かたつむり》……。そういえば、これもレオン様が輸入なさっていましたね……。曰く、フウリュウでしたっけ?分かりませんねぇ、気持ち悪いだけです……」
などと庭園の掃除もそこそこに蝸牛と格闘をしてしていたエミリーの首筋を冷たい何かが襲う。
「ひゃあ!」
不意に受けた冷たさに思わずトーンの外れた声を上げてしまい慌てて辺りを見渡したが、誰かがいる様子はない。代わりにポツポツと雨が降っているのに気が付いた。
「……ちょうど終了の時間ですし、戻りますか」
エミリーは雨の滴る紫陽花と、雫に喜ぶ蝸牛を後にして屋敷へと戻って行った。
一ヶ月後。レオンの結婚式が明日に迫った夜。
エミリーはいつもの様に他のメイドの皆と食事の終わったレオンの食器を片付けていた。
「エミリー、少し話がある。皆は食器を片付けて洗っておいてくれ」
少し訝しんだエミリーだがレオンの命とあれば断れない。メイド達と声を揃えて返事をするとレオンの左斜め後ろに控えメイドが出ていくのを待った。
「……まぁ、まずは座れ落ち着かん」
「出来ません。例え他人の目が無くとも線引きはせねばなりません」
「本当に堅いな、お前は。……座れ、許可する、命令だ」
対等に話したい時に行ういつもの儀式をスムーズに済ませたレオンはさっさと座れとばかりに目配せをする。
こうなれば折れるまで本題を話さない事を知っているエミリーは大人しくレオンの向い側に座る。
「単刀直入に本題を話すぞ。明日、お前は結婚式に来るな」
唐突に告げられた言葉にエミリーは多少面食らったが…。
「かしこまりました」
硬質に、感情を表に出さずに、彼女は主命を受諾した。
「……悪いな、お前には、私が誰かと契を交わす場にいて欲しくないのだ。決心が、鈍りそうになる……今でさえ、結婚などしたくないと思ってしまう。私は、お前が好きだ」
レオンの言葉に、エミリーの心はついて行けなかった。耳から入った言葉は頭の中でプカプカ浮かび、文にすらなっていない。
やっと言葉を拾い上げた頃には三十分は経っていた。主に対し、こんなに長く沈黙を返すなどあってはならない。何か、何か言葉を、返さなくては。だが心ははやり、焦り、口から何も出てこない。
「貴族は」
沈黙を破ったのはレオンだった。
「平民から税を徴収し、守るべき民とは比べ物にならないくらいの贅沢をする。その代わり、自由は無い。当たり前の事だ。当たり前の、等価交換だ」
悲しそうに、悟った風に語る彼の言葉は自分に言い聞かせているかの様だった。
「明日二時頃に鐘が鳴る。その時間部屋に居てくれ……。私の門出を、祝ってくれるな……」
何を勝手なと怒鳴り出せればどれ程良かっただろうか。だがエミリーは粛々と。
「かしこまりました……」
その命令を、呑んだ。
翌日、街は朝からパレードだった。領主の結婚式ともあれば祭り好きの民衆には良い理由だろう。今日は暇を言い渡されたエミリーは祭の中に身を投じる。しかし、心の重さは取れず、寧ろ大きくなってさえいた。結局一時間足らずで屋敷へと戻っていた。
部屋へ戻ってきたはいいものの特にすることも無く、手持ち無沙汰に耐えられずに部屋の掃除を始める。
心の重さのせいか、食事を忘れていたエミリーは部屋の掃除をしながら二時を迎えた。
「そろそろ、鐘の鳴る時間ですね」
レオンは門出を祝うなと言っていたが、せめて鐘の音くらいは聞いておこうとエミリーはベッドに腰掛け目を閉じる。
だが、いつまで経っても鐘の音は聞こえなかった。不信に感じて窓に目をやれば、ベランダに、レオンがいた。
「なにをしているの!?」
思わず絶叫したエミリーを見て、レオンが腹を抱えて笑っている。
「アハハハハハハ!お前のそんな顔や口調は初めてだ。鉄仮面のお前の顔を崩すのは面白いな!」
幼馴染の主が変な趣味を覚えた。ついついそんな馬鹿な事を考えるほど混乱したエミリーは窓を開け、レオンに掴みかかる。
「なにをしてらっしゃるんですか!結婚式は!?相手は!?鐘は!?」
「うむ、抜けてきた」
「貴方、新郎でしょうが!」
レオンに対して今までした事も無いような喋り方でツッコむエミリーに気を良くしたのか、レオンは朗らかに笑っている。
「本当に、なにをしていらっしゃるのですか。これからどうなるかわからないほど子供でもないでしょう」
「勿論理解してる。そもそも、勘当されるのが狙いだからな。私は、貴族をやめ、平民になるつもりだ」
「なんで……そんな事……」
「簡単だ。私にとって、この家の存続より、貴族としての生活より、お前と生きていくことの方が大切なんだよ」
「ならっ……」
言葉を継ごうとして、固まった。自分は今何を言おうとした?
『結婚をしたままでも愛し合うことはできるだろう』
エミリーは自分の考えの浅ましさに、ほとほと幻滅した。
二の句を継げなくなったエミリーに代わり、レオンはまたしても爆弾を落とす。
「それに、相手方の令嬢との共闘だからな」
「……は?」
イタズラが成功した子供の様にレオンはニヤニヤと笑っている。
「あの令嬢、噂以上に切れ者だった。いや、油断ならないの方が正しいな。こちらの気持ちを読んだ上で婚約の話し合いの日、今日までの計画を持ちかけてきた。今回の抜け出しも、お前の連れ出しも、全てあの女の計画だ」
「なんでそんな事……」
「なんでも王太子様と結婚するためらしい」
頭の痛くなる話が出てきたと、エミリーは耳を塞ぎたくなったが、聞かねばやはりしょうがないと決心をしてレオンと向き合った。
「王太子様に一目惚れしたあの令嬢は彼と近づく為に王家に召し抱えられる程の才覚を見せつけたそうだ」
「それでも彼女の家は辺境伯でしたよね?どうあっても無理に思えますが……」
「それも含めて計画の内らしい。本当に恐ろしいよ……。彼女の誤算は私と結婚させられそうになった事だけだと言っていた」
敵に回したくないと呟くレオンにエミリーは心の裡で深く同意した。
「おっと、喋り過ぎてしまった。時間が無いな、そろそろ追っ手が来るぞ」
懐中時計に目を移したレオンはエミリーの手を引き部屋を出ようとする。
だが、エミリーは動かなった。
「あの、返事を、しておりません」
返事?と目を丸くするレオンを見て、エミリーはかるく深呼吸をして、言った。
「私はあなたのことが……