忘れ去られた傷の名前
――ピーンポーン
日曜日の朝。
突然、自宅のチャイムが鳴った。インターホンについている画面を見ると、黒のシルクハットを目深に被り、同色のマントを羽織った、異様な姿の人物がそこにあった。
インターホン越しでも対応する気にはならない。そのまま、いなくなるのを身じろぎもせずに待つ。
――ピーンポーン
また、チャイムが鳴らされる。でも、無視を決め込む。息を潜め、ただ待つ。
「どうしたの、パパ?」
目をこすりながら、パジャマ姿の娘が起きてきた。
「向こうに行ってなさい」
声のボリュームを極力落とし、娘をリビングの方へと促す。不満そうな顔をしていたが、大好きなアニメが始まったらしく、すぐにテレビへと興味が移った。
「ふむ。困りましたね」
インターホンからシルクハットの人物の声が聞こえてくる。こちらからの音声はオンにしていなが、向こうからこちらへの音声はオンになっている。声色から察するするに、男性のようだ。
「これでは、復讐屋としての仕事ができませんね」
復讐屋? 聞いたことのない仕事だ。ただ、復讐というからには、俺に対して恨みがある者が、シルクハットの男を通じて、何かをしようとしている可能性がありそうだ。
ここで出るべきか。判断に迷ったが、様子を見ることにした。変な人間であることは間違いない。うかつに出てしまえば、何をされるかわからない。
それに、俺には復讐されるような覚えは何もない。
今はただの会社員だ。食品メーカーの営業をしている。営業成績はそこそこで、ちょっとした失敗はあるものの、取引先や上司、同僚などとトラブルを起こすようなことはしていない。
……そもそも復讐の相手は俺でないのかもしれない。
さすがに娘相手ということはないだろう。まだ幼稚園の年長になったばかりだ。子供同士のおもちゃの取り合いのような些細なトラブルはあっても、復讐屋などといった、謎の存在に何かを依頼するようなトラブルはないだろう。
だとすれば、妻、だろうか。
だが、それはすぐに違うと断言された。
「〇〇さんがこちらにお住まいであることは、わかっていても、本人と会わないことには交渉ができませんね」
シルクハットの男は、俺の名前をハッキリ口にした。
冷や汗が流れる。俺が何をしたっていうのだろうか。
「少し強引な手法を取りますか」
シルクハットの男は、カバンの中から数十枚の紙を取り出した。その一枚を、シルクハットの男はわざとインターホンのカメラに向けた。
紙は怪文書のようになっていた。新聞の見出し部分の文字を一字ずつ切り出し、それを一字ずつ張り付けて、文章に……なっていない。単語にすらなっておらず、あ、え、か、と適当に貼り付けられているだけだ。
だが、こんなものを玄関に貼られ、近所の人にでも見られたら、何かトラブルに巻き込まれていると勘違いされるだろう。
「これを玄関に貼っておけば、嫌でも反応するでしょう。おっと、その前に誰がやったかをハッキリさせておかないといけませんね」
コトン、という軽い音と共に、玄関にある郵便受けに一枚の名刺が落とされた。
物音を立てないように慎重にその名刺を取り上げる。
そこには復讐屋という文字と電話番号だけが書かれていた。それ以上の情報は何もない。
俺はインターホン越しに対応することを決めた。変な紙を貼られたくない。それにおそらく、変な紙をはがしたとしても、また貼りに来る可能性が高い。
仮に毎日、こんな出で立ちの男が訪問してきたとなれば、貼り紙をはがしたとしても、我が家も奇異の目で見られるようになってしまう。
「……お前は誰だ?」
「あ、こんにちは。朝早くからすいません。わたしは復讐屋という者です。名刺をお渡ししたいので、玄関を開けてもらえませんでしょうか?」
「断る。用件を言え」
「まあ、インターホン越しでも、わたしは構いません。用件というのは、ちょっとした交渉をしたいだけです。依頼主から、あなたから心からの謝罪を聞かせてもらいたい、というものです」
「謝罪? 何に対する謝罪だ」
「依頼主からは、中学二年生の頃の××のことを覚えていますか? とだけ聞くように言われています。答え如何によって、こちら側の対応が変わりますので、答えは慎重にお願いします」
俺は××という名前を記憶から探る。ヒントは中学二年生の頃。その頃の記憶はだいぶ曖昧になっていて、担任の名前ももはや思い出せない程だ。それに、あの頃は父親と衝突し、少し心が荒んでいたこともあり、いわゆる不良っぽい振る舞いをし、そういった奴らとよくつるんでいた。
しかし、すぐに××という名前を思い出した。
××のことは、よく覚えている。
俺は玄関を開けた。
「改めまして、こんにちは」
シルクハットを脱ぎ、男は丁重に礼をしてきた。中年男性のようだ。目元は柔らかく、人の良さそうな印象を受ける。
「わたしの部屋で話をしませんか。××については、よく覚えています」
「……そうですか。それでは、お邪魔します。その前に、シルクハットとマントはしまいましょう。ご家族の方には見られたくないでしょうから」
男はカバンに手際よくシルクハットとマントをしまうと、靴を揃えて、玄関を上がった。
妻に一声かけてから、俺は自室へと男を案内した。
そして、扉を閉めるなり、即座に土下座をした。
「あの時は、本当に申し訳なかったッ!」
俺は××のことをよく覚えていた。いや、正しく言うのなら、忘れようと心の中に閉じ込めておいた。
××は俺が不良の奴らとよくつるんでいる時に、不良の奴らにターゲットにされたいた人物だ。
早い話が、いじめの対象だった。
金を巻き上げたり、万引きさせたり、暴力をふるったりといった行為が繰り返し行われていた。
俺は直接関与していない。巻き上げた金のご相伴に預かったこともない。当たり障りのないように断った。
むしろこれが起因となって、不良グループからは距離を取るようになり、普通の学生へと戻っていた。
だが、××からすれば、一緒のグループにいた俺も恨みの対象となってしまうのは理解できる。俺も同じ立場だったら、そう思うだろうから。
それに、そういった行動を咎めなかったのだから、同罪だと言われても反論はできない。
最も、咎めなかったのは、咎めれば、その矛先が自分に向かうことがわかりきっており、それを恐れたからだ。
見捨てた、と言われてしまえば、そこまでだ。
俺は××に対しては申し訳ない気持ちを忘れていない。だから、俺は即座に土下座での謝罪をした。土下座までしたのは、少しでも謝罪の気持ちが伝わればと思ったからだ。
「申し訳、ありませんでした……」
俺は床に頭を付けたまま、微動だにしなかった。相手からの反応があるまでは、そうしているつもりだった。
『もう、いいですよ』
声は、シルクハットの男のものではなかった。
顔を上げると、シルクハットの男がスマートフォンをこちらに向けていた。そこに、高級そうなスーツをまとった、一人の男性の姿があった。
「××さんです」
正直、驚いた。中学生の頃とは全く雰囲気が違っていた。
中学生の頃は、おどおどしており、威圧的な態度を取られると縮み上がるようなタイプの人間だった。
対して、目の前の画面にいる人物からは、自信が感じられる。背筋がしっかりと伸び、余裕のある柔和な笑みを浮かべているからだろうか。
『お久しぶりです。覚えていてくれて、うれしいですよ。てっきり忘れられているものかと思いましたから』
「……忘れられない、ですよ。あの時は、本当に悪いことをしたと思っています」
『……そうですか。でも、あなたは直接わたしに何もしていません。良い意味でも、悪い意味でも。だから、わたしはあなたを特段恨んではいません。まあ、当時のわたしは、なんで助けてくれなかったんだ、なんて思ったりもしましたが、今ならそれをするのが難しいとわかりますから』
「……止められるなら、そうしたかった。でも、自分の力だけでは、どうすることもできなかった」
『……止めたいという気持ちがあった。その言葉で十分救われた思いになります』
そこで沈黙が流れた。俺としては、謝罪以外にできることは何もない。
しばらくして口を開いたのは、××だった。
『……いきなり、復讐屋なんていう謎の存在を送りつけてしまい、申し訳ありませんでした』
俺は困惑した。まさか謝罪の言葉を受けるとは思っていなかったからだ。
『どうして、わたしがこんなことをしたのか、少しお話させてください。わたしがこんなことをしているのは、言うまでもないですが、復讐、です。いじめっ子……という表現は、なんだか可愛らしい響きに聞こえてしまうので、言い方を正しましょう』
すっと息を吸う音がした。刹那、部屋が凍り付いたのかと錯覚した。吐き出された言葉があまりにも冷たかったから。
『加害者共、と言いましょう。彼らはわたしにしたことを忘れて、のうのうと生きています。わたしはそれが許せないのです。被害者になった人間は、加害行為をされた時も傷つきます。しかし、それだけでは済まないのです。その影響は残存し続け、その傷が完全に癒えることはありません。たとえ、わたしのように大企業の役員になったとしても』
その会社名を聞いて、開いた口がふさがらなくなった。大企業も大企業だ。その名前を聞いて、知らない、と答える人間は稀有だ。それは国内に限らず、海外であっても言えることだ。
『わたしは思い知らせたいのです。被害者が受けた傷は未だに癒えていないんだ、と。傷口が完全にふさがることはないんだ、と。加害者がその傷を忘れて生きることを、わたしは是認できません。だから、復讐するのです。自分のしたことの代償は払ってもらいます。どれだけの時間がかかったとしても。そうでなければ、不公平ですから』
柔和な笑みの向こう側に確固たる決意と、おぞましいまでの殺気を感じた。
止める気にはならなった。被害者だけが癒えぬ傷を抱え、加害者がそれを忘れ、何ら傷も負わずに生きることは、やはり不公平に違いない。
傷を受けたものだけが、我慢するのは道理がおかしい。
『さて、そろそろ時間なのでお暇させてもらいます。お話ができて良かったです』
「……一つだけ、教えてもらっていいですか?」
『なんでしょうか?』
聞くかどうか、少しだけ逡巡した。だが、聞いておきたかった。
「もしも、わたしがあなたのことを覚えていなかったら、あなたはどうしていたのでしょうか?」
刹那、俺は背後を振り返っていた。背中に刃物を突きたてられたような、背筋が凍る感触に襲われたからだ。
だが、すぐに正面に顔を戻した。殺気は画面の向こう側から漏れ出てきたものだった。
『……教えてもいいですが、世の中は知らない方がいいこともありますよ』
俺は閉口した。踏み入れてはいけない領域だ、と直感する。
「わかりました。これ以上の詮索はしません」
『賢明な判断だと思います。それでは失礼します』
画面が消え、自分の姿が反射した。
「それでは、わたしもこれで失礼します」
シルクハットを被り直し、男も部屋から出て行った。
後日、シルクハットの人物が、数人の男に重傷を負わせたというニュースが流れた。
その全員が、人の名前を聞かれ「覚えていない」と答えた瞬間の出来事だったと証言しているとのことだった。
そして、その名前を誰一人として、思い出すことはできていない、とも報道されていた。