おめでとうの意味
学園生活の思い出は必要なもの以外すべて卒業と共に葬ろうと思っていたリオノーラは、今まで学んだ教科書やノートも全部捨ててきた。寮生活で使っていた実家のものしか残っていないため、馬車に乗せている荷物はとても少ない。そのおかげでか、リオノーラは予定より早く実家に帰ることができた。
「ただいまーっ!」
リオノーラはとびきりの笑顔と元気な声で屋敷の扉を開けた。すると数少ない使用人たちがズラリと並び、その先では両親もまたとびきりの笑顔でリオノーラを出迎える。
「お嬢様、おめでとうございます!」
「リオノーラ、おめでとう!」
パァァン!
クラッカーまで用意され、リオノーラはみんながこんなにも自分の帰りを待っていたことに感激して、目尻にうっすらと滲む涙を指で拭った。
「本当によくやったぞリオノーラ!」
「ユエンといいリオノーラといい……こんな優秀な子たちがいて幸せだわ」
両親からも激励を受け、特になにも得ずに卒業したことを咎められなかったことにリオノーラは内心ホッとしていた。
(うちは決して裕福ではないけれど、みんなこんなに優しい。やっぱり、大事なのはお金や身分じゃあないわよね)
二年間もお金持ち貴族と過ごしていたリオノーラは、改めて家族の素晴らしさを実感する。学園にいる人はいくら贅沢な暮らしをしていても心が貧しかった。それに比べて我が家は貧乏になってしまっても心は貧しくないと。
「ほらリオノーラ。あなたのためにたくさん作ったのよ」
母に背中を押されて食堂に連れていかれると、テーブルには色とりどりのサンドイッチとストロベリータルトが用意されていた。どちらもリオノーラの大好物だ。
「わぁ……! 私のためにありがとう。もう、パーティーで食事は済ませたっていうのに、こんなの見せられたらまたお腹が空いてきちゃった」
正直、パーティーで出された料理はあまり口に合わなかった。口直しというと失礼だが、リオノーラは早速、いちばん近くに置いてあったたまごサンドに手を伸ばし口に運んだ。
「ほんっとうに今日はおめでたい日ね」
もぐもぐと小動物のようにサンドイッチを食べる娘を見て、母エノーラは幸せそうに何度も頷く。
「もうっ! 大袈裟ね。学園を卒業しただけなのに」
私の帰りがそんなに待ち遠しかったのかしら、とリオノーラはなんだかくすぐったくなる。だが、そんなリオノーラに父は眉をひそめた。
「……リオノーラ、なにを言ってるんだ?」
「え? だってこれは、私の卒業祝いでしょう?」
屋敷中の人間がぽかんとした表情でリオノーラを見つめた。
(私、なにかおかしなことを言った?)
しんと静まり返った空気の中で、エノーラが笑い声をあげた。
「なに言ってるのリオノーラったら! 恥ずかしがっちゃって!」
ああ、恥ずかしがっ、てるのか――と、周りから温かい視線を向けられるリオノーラ。
「え? なに? なんのこと?」
「だ・か・ら! これはあなたの結婚祝いに決まってるでしょう!」
「けけけ結婚!? 私が!? 誰と!?」
リオノーラは縁談があったなど聞いていない。
「アベル次期公爵様よ!」
「……はい!?」
リオノーラの口からパンの端切れがぽろりと落ちる。その話なら先ほど断った。そもそもあれは、自分を笑いものにするための悪趣味な冗談で、本気で言っているわけではない。少なくともリオノーラの頭の中ではそのように処理されていた。
「今日の午後、この手紙がうちに届いたの。もうびっくりしちゃって! 浮いた話はなにもないと思っていたのに……リオノーラったらこんなサプライズを用意してくれていたのね!」
「ちょっ、ちょっとそれ見せてっ!」
どこに隠し持っていたのか、リオノーラは母から奪い取るようにその手紙を手にするとすぐさま内容を確認した。
〝この度、わたくしアベル・イースデイルとリオノーラ・エドウズご令嬢は結婚する運びとなりました。私共の結婚をエドウズ伯爵家の皆様が承認いただけるなら、リオノーラ嬢を我がイースデイル公爵家の妻として迎え入れたい アベル・イースデイル〟
(いつのまにこんな手紙を!? そんなことより――アベル様、まさか本気で私のことを!?)
リオノーラにひとつの可能性が浮かび上がる。卒業パーティーでアベルが自身に放った言葉は趣味の悪い冗談でなく、すべて本心だった説だ。いくらアベルが性悪令息だとしても、わざわざここまで手の込んだ悪戯をするだろうか。
(いやいや。アベル様ならありえる。だって二年間執拗に私をいびってきたんだもの!)
脳内に浮かび上がった可能性は、首を大きく横に振ってかき消した。
「もう私たちったら大騒ぎしちゃったわ! あのアベル様をゲットするなんてさすがうちの子!」
「い、いや私、この結婚は断っ――」
「急いで返事を書いて、速達で届けてもらったわ! もちろん承認いたしますって!」
母はリオノーラに抱き着くと、その柔らかな頬にすりすりと頬ずりをした。ほのかに香る母の甘い石鹸の香りを堪能する余裕もなくリオノーラは絶句する。
「待って、私とアベル様の結婚を許したってこと……?」
「ええそうよ。もう届いていると思うわ。これで正式に結婚が成立したわね」
「……正式に、結婚が成立?」
(嘘でしょう!?)
これがドッキリならまだいい。家族まで巻き込んでの恥さらしとなってしまうが、勝手に返事をした両親にも責任がある。これは連帯責任だ。しかし、もしこれがドッキリではなく、本気の結婚の申し込みだったとしたら――。
「わ、私、アベル様と結婚はちょっと……」
口元をひくつかせ、リオノーラはお得意の作り笑いをしながらアベルとの結婚が嫌だとやんわり告げようとした。
「これで我が家も安泰だ! ユエンとリオノーラにこれ以上貧乏な生活をさせなくてすむ!」
「い、いや。聞いて? お父様――」
「私たちもやっとこの生活から抜けられるわ!」
「……」
食堂は海賊の宴のように盛り上がり、リオノーラはなにも言えなくなった。
(たしかに家のことを考えればこんなにいい縁談はない。断る理由なんてどこにもない――ただ)
相手がアベルでなければ、だ。
身分のいいほかの令息との結婚ならば、リオノーラは迷わず家のためにオーケーしただろう。そう、相手がアベルでなかったのなら。
(あんなに自分をいじめてきたアベル様だけは絶対に嫌! それなのに……)
「幸せにな! リオノーラ」
「幸せにねっ! リオノーラ」
「お幸せに! お嬢様!」
どうしてこうなった。
「あ、あはは……」
リオノーラは念願の実家へ戻ってなお、作り笑いを浮かべ続ける羽目になった。