特別編:その10
リーリェンが熱を出した。珍しいこともあるもんだ、とリージュはリーリェンの寝顔を眺めた。比較的大人びた雰囲気のリーリェンだが、印象的な涼やかな目を閉じてしまえば、ただの少女に見える。と言っても、彼女ももう十九歳だが。時がたつのは早い。
そっと扉が開いて細身の少女が入ってきた。手にたらいを抱えていて、水が張られていた。侍女見習い中のメイメイだ。彼女はリージュを見て驚いた表情はしたが、取り乱すようなことはなかった。
「申し訳ありません、リージュ様。いらしていたのですね」
「ええ。妹だもの。少しは心配するわよね」
リージュが微笑んでそう言うと、メイメイは居心地悪そうに身じろいだ。メイメイがリーリェンにおびえているようだ、という情報は、さすがにリージュの耳にも入っている。それを察したのだろう。メイメイにとっては怖い主人でも、リージュにとっては可愛い妹なのだ。メイメイはちゃんとわかっている。わかっている上で、リーリェンに対して挙動不審なのだ。
「大丈夫。怒ってないわよ」
からりと笑ってリージュが言うと、メイメイはほっとした表情をした後、複雑そうな表情になった。リーリェンの氷嚢を取り換えながら口を開く。
「同じことを、主上にも言われたんです」
いまだに主上と呼ばれているのが信じられないが、リーリェンのことだ。まあ、彼女もそれくらいは言うだろう。たぶん、無表情で淡々と。
「でも、その、謝り倒して、私、全然話を聞かなくて」
話を聞いていない自覚があるだけましだ。リージュはうーん、とうなった。
「メイメイはリーリェンが怖い?」
「怖い……です」
リージュには素直なのに。リーリェンの前では失敗が多いようだが、仕事だってちゃんとできている。そもそも、メイメイを連れてきたのはヨウリュだ。彼が、親戚の子だからってリーリェンに害になるような子を連れてくるはずがない。
「どうして? まあ、身内びいきなのは認めるけど、優しい子よ。ちょっと表情がなくて、口調に抑揚がないだけで」
さらに剛毅なところがあるため、冷徹に見えるのは確かだ。女王としてふるまっているときの合理主義っぷりは、若い娘がおびえても仕方ないとは思う。
しかし、ここを乗り越えなければ、リーリェンは一生ズーラン以外の侍女が手に入らない。それは困るだろう。いろんな意味で。
「……たぶん、思っているよりも怖い方ではないんだろうな、とは思うんです」
それはリーリェンを見ていればわかることだ。態度も口調も冷淡に聞こえるが、あれで抜けたところのある娘だ。少なくとも「怖い」ことはない。まあ、怒らせたら禁城を火祭りにあげるくらいはするかもしれないが、ルイシーが一緒にいる限り、それはないだろう。自分より相手を気にする子だから。
おそらく、メイメイもそれをわかってきている。それでも怖いのは。
「その、表情が変わらなくて……なんていうんでしょうか。美人の無表情は、本当に何を考えているのかわからないな、って……」
「……そうね」
美人が怒ると怖い、とは誰が言ったのだったか。父だったかもしれない。それが無の表情で心配を口にするのだ。確かにそれは恐怖なのかもしれない。
「うーん。私も最近のリーリェンのことはあまりよく知らないのよね……子供のころはよく笑うじゃじゃ馬な泣き虫だったけど」
「主上、泣くんですか」
メイメイが驚きを口にした。まあ、リーリェンだって人間だから、笑いもするし泣きもするさ。ただ、自尊心が高いから、あまり泣き顔は人に見せないだろう。
「ズーランさん曰く、今の主上は「だいぶまし」ならしいですが……」
「そうねぇ。再会したころに比べれば、だいぶ表情は動いてるわよ。大丈夫よ。何を言っても怒らないから。軽蔑の目で見られるかもしれないけど」
「……」
すでにリージュですら何度か食らった攻撃のことを口にすると、メイメイは何とも言えない表情になった。ちょっと脅かしすぎただろうか。
メイメイがお茶を取りに行ったのを見て、リージュはリーリェンに声をかけた。
「ですって。もう少し顔に仕事をさせなさい。ふけるわよ」
「余計なお世話だ……」
返答があった。どの時点からかはさすがにわからないが、リーリェンは起きていたのだが、黙ってリージュとメイメイの会話を聞いていたらしい。
「盗み聞きするなんて駄目よ」
「では、こんな聞こえる場所で話をするべきではないな」
ゆっくりと身を起こしながら、リーリェンは言った。姉のリージュどころか、夫のルイシーに対してすらこの態度なのだから、彼女の頑固さも筋金入りだろう。頑固というか、癖なのだろうか。
ひとまず、額に手を当てて、熱を測る。本人はけろりとして見えるが、まだ少し熱がある。もともと体温は高い方だと思うが、それにしても熱い。
「まだ寝てなさい。メイメイのことは、後で考えればいいわ」
リーリェンに水を飲ませ、リージュは妹を横にさせる。
「……メイメイが私を怖がっているのはわかっているし、どうにかしないととは思っているんだ……メイメイだけに慣れろ、というのもおかしな話だと思う……」
リーリェンはメイメイだけに押し付けようとはしていないらしい。ちゃんと、自分も変わらなければならない、と思っている。こんな心持なのに、表情筋は動かない。
おそらくだが、リーリェンは無意識の人見知りなのだと思う。だから、新しい人間には公の顔で接する。それが、怖い、と。彼女の冷静な面が前に出ているので、ある意味当然だ。
リージュやズーラン、ルイシーくらいにかかわりを持つと、表情筋が動いてくる。メイメイもそのうち目にするだろうが、まだそこまでのかかわりはない。
「大丈夫よ。熱が下がってから、また考えましょ」
「うん……」
ほら。こういう反応とか。優しく頭をなでる姉の手に、リーリェンは目を閉じる。リージュは微笑んだ。
彼女の表面ばかりを見ている人は気づかない。『冷血女王』と呼ばれる彼女が、本当はただただ優しい娘であるということに。
「でも、あなたは気づかれることを望まないのでしょ」
リーリェンは国を治めるために必要なことを知っている。いまいち自分に自信のないリーリェンは、表面上は冷静な態度を崩さないだろう。それができるだけの精神力がある。それで壊れてしまわないか心配ではあるが。
「きっと、大丈夫ね。私がいなくても……」
彼女にはもう、ルイシーがいる。手元を離れていくのだと思うと寂しい気もするが、女王の弱味になることはできないのだ。
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あと1話。




