30.運河
最初はお約束のやつ。
市を歩いた三日後、運河を見に行った。人が作った大きな河。もともとあった河を利用してはいるが、大型の船が乗り入れられるように整備したものだ。リーリェンは初めて見た。
運河は本当に京師のど真ん中を貫いているわけではなく、少々中心からずれたところにある。そのため、ちょっとした遠出となるので、シンユーとズーランも連れてきていた。移動も馬車である。馬がいいと言ったのだが、やはり却下された。
「気持ち悪い……」
「お前、本当に駄目なんだな……」
移動距離が短かったために吐くほどではないが、顔面蒼白でふらついているリーリェンを支え、ルイシーが心配そうに言った。胸元を押さえて深呼吸を繰り返す。運河を眺めながらしゃがみこんだ。
「おい。落ちるなよ」
「平気」
落ちそうになってもルイシーたちが捕まえてくれるだろう。金華で崖から落ちたときもそうだった。ズーランも近くで「遠くを見ましょう、遠く!」と言いながら励ましていたが、少し離れていたシンユーが近寄ってきてささやいた。
「場所、移しませんか。どこか茶屋にでも入りましょう」
「今食べ物のにおいをかいだら、死ぬ……」
「乗り物酔いで死んだりしないので大丈夫です」
シンユーがいつになくきっぱりと言った。確かにここにとどまるのはよくない気がして、リーリェンはとりあえず立ち上がった。まだ気持ち悪さは残っているが、歩けないほどではない。
「大丈夫か?」
倒れないようにリーリェンの肩をつかんだルイシーが心配そうに尋ねる。リーリェンは軽く手をあげて大丈夫、と言ったが、たぶんルイシーもズーランも信じていない。
茶屋の店の外の席に座らせてもらった。何も注文しないわけにはいかないので、ズーランがお茶と胡麻団子を注文したが。
「……『もう一人のお嬢さんは大丈夫? つわりがひどいようなら漢方を出しましょうか』って言われたわ……」
「俺も、『お嬢さんは大丈夫? めでたいね』って声をかけられて、これは勘違いされているなー、と」
だから移動しようと言ったのか。なるほど、とリーリェンはシンユーの証言にうなずいた。リーリェンは青い顔をしている以外に変化はないが、ルイシーは困ったように苦笑した。
「ああ、なるほど……。俺も、ズーランに任せておけばよかったな」
人間と言うのは、年の見合う頃の男女が一緒にいると、恋人か、夫婦か、と考えてしまうものだ。リーリェンを気遣うルイシーを見て、勘違いが加速したのだろう。
「まあ、もう会わないだろう相手にどう思われようが、どうでもいい」
さくっとリーリェンが言うと、他の三人から非難がましい視線を受けた。
「なんで当の本人がけろっとしてるのよ……」
ズーランからの素のツッコミが入るが、聞いての通りである
「わざわざ誤解を解いて回るほどのことでもないだろう。面倒くさい」
「本音が漏れてるぞ」
ルイシーも苦笑してツッコミを入れたが、彼も実害がないと判断したようだ。どうせ、少し見て回れば戻る予定なのだ。説明するだけ時間の無駄だ。そうですね、と受け流せば済む話なのだから。
リーリェンが落ち着いたので運河の側を歩いてみることにしたが、その道中でも夫婦に間違われる。決まってリーリェンとルイシーが間違われる。ほかの組み合わせはない。ちゃんと、ズーランとシンユーは付き人に見えているらしい。なぜだ。
「……少し、連れて行きたいところがあるんだが、大丈夫か?」
「ものによるが」
含むところのある言い方だったが、時間があるか、ではなく、その場所に行っても大丈夫か、ということを尋ねているのだろう。リーリェンもシンユーも平気だ。彼女はズーランを振り返る。ルイシーもズーランを見た。
「え、あたし?」
自分を指さすズーランに、リーリェンは腕を組んで言った。
「お前、惨殺死体とか大丈夫だっけ」
「直球で聞くな、お前は」
ズーランは青ざめて首を左右に振ったので、シンユーに彼女を預け、リーリェンはルイシーと二人でその場所に向かった。
運河の近くは栄えていると思ったが、それだけではないようだ。光が強いほど、闇は深い。
「ここで、多くの人が殺されている。今もだ。ここに連れてこられた人間は必ず殺される。誰も口外しない。言えば、自分が殺されるからだ」
ただの広場に見える。だが、術師として訓練を受けたリーリェンは思わず口元を覆った。
「死臭がする。怨嗟が渦巻いてる。一歩でも足を踏み入れれば巻き込まれる気がする」
ランウェンならこれを浄化することができるかもしれないが、リーリェンには無理だ。彼女の能力は浄化の炎だが、三日くらい燃やし続けなければならないだろう。そんなに霊力が持たない。何より、リーリェンの力は何より攻撃力に振り切られている。
話を戻して。ここは処刑場なのだろう。ちゃんとした場所ではなく、私的なものだ。それを、みんなが共用している。先ほど、ルイシーもここに連れてこられたものは殺される、と言っていた。自分の意にそぐわぬものを連れてきて、殺す場所なのだろう。しかも、それが見て見ぬふりをされているということだ。司法が機能していない。
あんなに栄えているように見えるのに、見た目だけだ。それくらい、この国は腐っている。
「戻ろう」
ルイシーはそう言って、リーリェンの肩を抱き寄せてその場所から引き離した。強い力で肩を押されて足がもつれると、慌てたように支えられる。
「すまん、速かったな」
「いや、大丈夫」
そう言ったが、ルイシーはリーリェンを放さず肩を抱いたままゆっくりと歩く。
「去年、俺が禁軍から放逐されたときのことを話したことはあったか?」
リーリェンは首を左右に振る。聞いたことはなかったが、なんとなく察しはつく。
「宰相の勘気を被った。後宮に入るはずだった娘を、その家族が隠して、一族郎党すべてとらえてあの場所に連れていけ、と言われて、断った」
「ああ……」
リーリェンはいろいろと納得してうなずいた。あの場所へ連れて行くということは、殺せ、と言うことだ。王も黙認したのだろう。そして、ルイシーは『お上の勘気を被った』とは言っていたが、『王の勘気を被った』とは言っていなかった。
「結果的に、主上の勘気を被ったことにはなるな。目を付けた娘が手に入らなかったわけだから」
「……理不尽」
「お前、それ、口に出すなよ」
半笑いでルイシーが言った。さすがに、それくらいの忖度はできる。リーリェンはルイシーの背中当たりの布をつかんだ。少し後ろに引かれたルイシーはリーリェンを見下ろした。
「私はお前が間違っているとは思わない。守ろうとしただけなんだろう」
「ああ……結局、もう一人の将軍が連れて行ったようだが」
たまらず、リーリェンはルイシーの頭を抱き寄せた。顔一つ分身長が違うため、ルイシーにとっては少々苦しい体勢になるだろう。だが、そうしたい気分だった。
「なんだ?」
いささか笑みを含んだ声で、ルイシーが尋ねた。
「……なんとなく?」
彼はこんなに傷ついているのに、王にとっては大したことではなかったのだろう。実際、一年もたたずにルイシーを呼び戻している。
「悪いことばかりではない。お前に会えた」
ルイシーがリーリェンを抱き返しながら言った。
かなうことはない。わかっている。わかっているのだ。それでも。
「私も出会えてよかったと思う」
この想いは本物だ。これを知れただけで、出会った意義はあると思う。
このどうしようもない世界で、二人は生きている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
完結が近づいています。つらい…。




