29.気づき
案内してもらって街並みを見れば、何か覚えていることもあるかもしれない、と思ったが、そんなこともなかった。四歳の記憶力では大したことは覚えていないようだ。
「はぐれるなよ」
一般的な女性と同じくらいの体格であるリーリェンは、人通りの多い目抜き通りで人の流れに流されそうになる。周囲より頭半分ほど大きいルイシーがリーリェンの手を引いた。そのまま手をつなぐ。リーリェンが小走りになると、ルイシーは歩く速度を緩めた。
きょろきょろと完全にお上りさんであるリーリェンは、ときどきルイシーに手を引かれた。興味深そうな彼女に、ルイシーは苦笑を浮かべた。
「そんな、いかにも京師は初めてです、って顔をしてたら、詐欺にあうぞ」
「都会は恐ろしいな」
「まあ、お前は引っかかりそうにないが、何かある前に人に相談しろよ。そう言うの、お前、苦手そうだし」
「……前から思っていたが、ルイシーはよく見ているな……」
確かにその通りだった。合理主義だが浮世離れしている自覚のあるリーリェンだ。そして、困ったことを人に言えない傾向がある。だからこその、ルイシーと出会ったころの抑圧されたリーリェンであるのだ。
「そう言うってことは、一応自覚があるんだな」
明確な返事はしなかったが、ルイシーはそれ以上は言わなかった。代わりに「見たいものはあるか」と尋ねてきた。リーリェンは少し考える。
「市は見てみたいな。あと、運河。運河が見たい」
「わかった。運河はちょっと距離があるから今日は無理だな。ひとまず市に行ってみるか」
手をつないだまま、ルイシーは迷いなく人ごみの中を歩く。やはり、ちゃんと京師を知っている人間がいると移動が楽でよい。一応、次は一人で来られるように道順も覚えておく。女性には地図が読めない人も多いが、リーリェンは訓練したのでそれなりに読める。
「お前たち、三人だけで来たのか?」
「いや……」
歩きながら尋ねられ、リーリェンは首を小さく振る。
「さすがに、当時父の補佐をしていた者を二人連れてきた。侍女と護衛はそれぞれズーランとシンユーだけだな」
京師の事情が全く分からないと言っていいリーリェンだったので、父グォシャンが宮廷を追われた際に、金華までついてきた、という男女を一人ずつ連れてきた。
「まあ、それはそうだよな。にしても、身分の高い女性にしてはお付きが少ないな」
まあ、それがお前のいいところでもあるけど、とルイシー。確かに、領主である女性が旅するには少々人員が乏しかったかもしれない。護衛の。まあ、リーリェンの場合は彼女自身が爆薬のようなものなので、護衛はそう必要ない気がするが。
「あまり馬車を連ねたくなかったからな。速度が落ちる」
「ああ、お前、馬車が駄目だった言ってたな」
禁城の前でごねたときの話だ。人にもよるだろうが、どうせ馬車に酔うのなら、その時間は短い方がいい、というのがリーリェンだった。
そんな話をしているうちに市に到着した。珍しい工芸品や食べ物が売られていて、リーリェンは店の軒先を覗き込む。
「お上りさん」
含み笑いにルイシーに言われ、少しムッとしたが事実なのでにらむにとどめた。西方のものが多く、目移りしている自覚はある。
「リーリェン、ほら」
「何?」
右手の平に髪飾りが乗せられた。僑では見ない意匠だ。
「こんなのもあるぞ」
さらに乗せられたのは首飾りだった。こちらも僑では珍しい作りだった。
「きれいなものだな」
感心したような声を上げるリーリェンに、店員の男性が笑う。このあたりの人ではないようだ。
「お嬢さん、気に入ったなら恋人に買ってもらいな」
見た目は異国人に見えるが、言葉はこのあたりで使われているものだ。行商人のようなので、語学に長けているのだろう。
「いくらだ?」
「ルイシー」
リーリェンはルイシーの服の袖を引いて止めようとしたが、ルイシーはさっさと支払いを済ませてしまった。手元に、髪飾りと首飾りが残る。
「つけてやるから後ろを向け」
肩をつかまれて後ろを向かされる。掌から髪飾りと首飾りが取り上げられる。存外優しい手つきでそれらをつけられた。
「……ありがとう」
「いや。お前の髪飾りを預かったままだからな」
そう言えばそうだった。リーリェンの手元に戻ってきていないということは、彼がまだ持っているのだろう。リーリェンは下からルイシーの顔を覗き込んだ。
「お守りになったか?」
「ああ、なった」
「……なら、よかった」
目を細めて微笑むと、ルイシーは少し驚いたような表情になった。驚いたように、リーリェンの唇を指でなでる。リーリェンが口を開いた。
「ルイシー」
「ん?」
「往来ではやめてくれ」
「……」
ルイシーがリーリェンを解放した。動揺しなかったわけではないが、表面上はいつも通りに見えていただろう。
「……怒ったか?」
「そうではない……いつ、運河を見に行こう」
「そうだな……」
ルイシーの次の休みの予定を聞きつつ、二人は引き続き市を歩く。珍しい果物を食べてみたり、西方の葡萄酒を買ってみたり。
「お前は酒に強いようだから大丈夫だと思うが、飲みすぎるなよ」
そう言いながら、葡萄酒をリーリェンには持たせなかった。荷物を持ってくれている。もともと姫君から領主になったリーリェンだから、そういうことをされるのは慣れている。慣れているのだが、なんだか心が落ち着かなかった。
日が暮れる前に、宿屋まで送ってもらった。一日京師を連れまわしてもらって、大切にされていることが分かった。それでふと、思い出したことがある。
「前に金華で、母が私を心配しているのだろうと、お前は言ったな」
「ああ……言ったことがあるな」
金華に国軍が入ってきたときの話だ。また娘が連れていかれる、と騒いだクゥイリーに対し、ルイシーはお前が連れていかれると思ったんだろう、と言った。あの時はなるほど、と思ったのだが。
「お前の言った通りだった。京師に行くと言ったら、母上に引き留められた。直接言われたわけではないが、心配された、のだと思う」
「……そうか」
虚を突かれたような顔をしたルイシーは、次には目を細めた。
たくさんの好意の中で、リーリェンは生きている。思われているのが分かったから、彼女も思いを返したい。……返せないこともあるけど。
「たぶん、ルイシーに言われなければ気づかなかったと思う。礼を言う。ありがとう」
「どういたしまして。お前が笑えるようになって俺もうれしいよ」
ルイシーの指がリーリェンの頬を撫で、首筋を滑って鎖骨を撫でた。先ほど彼が買い与えた首飾りに触れる。
「……これも、お前を守ってくれるといいんだが」
「きっと、守ってくれる」
リーリェンも首飾りに触れてそう応じたとき、「とぉ!」とリーリェンとルイシーの間に手刀が落とされた。二人とも察知して身を引いたので、手刀は食らわなかったが、かなり面食らった。奇妙な掛け声とともに手刀を振り下ろしたのはズーランである。
「ここ、宿の入り口! おさわり禁止!」
結構当然の指摘である。ズーランにはこのような指摘をされることが多い気がした。まあ、侍女としてしっかりしているのだろう。たぶん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
順調にフラグを積み上げていく二人。




