38.『みゃあら』 2
◇ シーフ・みゃあら
盗みを働いてみようと思い付きで考えたものの、別に目当ての物があったわけではないので、今更ながら老婆の姿を観察する。
左手の薬指にはまるキレイなリング、細い皮ひも細工の腕輪、手に持った財布。
「…………」
アタシはその中で適当に目についた細い革ひも細工の腕輪を盗むことにした。
老婆はこちらに気づく様子もなく、出店の店主と話をしている。
小さく口の中で「盗む」と呟き、老婆のほうへと手を伸ばす。
スキル発動のエフェクトで手が一瞬輝き、ドキリとしたけど、老婆や店主は気づく気配もなくにこやかに会話を続けていた。
握った手のひらにはしっとりとした革ひもがこすれ合う感触があった。
それを感じた瞬間、全身がぞくりと粟立った。
バレずに盗んでやったという爽快感や達成感なんて全くない。
お腹の底に重くて冷たい大きな石を詰め込まれたような、「やってしまった」という後悔だけが、本能的な不快感と共に押し寄せてきた。
「ひっ……」
思わず悲鳴が漏れそうになる口元を抑える。
もしかしたらアタシを虐めていたあいつらも、このうすら寒い罪悪感から逃れるために、共犯者がほしかったのかもしれない。
アタシは自分のやったことをすぐに後悔した。バカだった。なんでこんなことを……。
今からでも正直に謝って腕輪を返せば許してくれるだろうか。
老婆は買い物が終わったらしく、財布から数枚の硬貨を取り出そうとしている。
その表情にすこし変化があった。腕輪がないことに気づいたのかもしれない。
声をかけなきゃ、謝ろう、そう思っているのに、さっきから身体は全くいうことをきかない。
心臓はこのまま爆発するんじゃないかっていうほどうるさく鳴り続けていて、口の中はカラカラだ。
アタシは一度唾を飲み、深呼吸した。このままじゃいけない。声をかけてちゃんと謝ろう。そう思い、口を開きかけたその時だった。
「おい、お前」
不意にアタシの腕がつかまれた。
見ると、ファンタジー的なデザインではあるものの、なんとなく軍隊の制服のような、きちんとした身なりをした大柄な男がアタシを睨みつけていた。アタシの腕をつかむ力がとても強い。
「い、たっ……!」
「手の中を見せろ」
男のその言葉がゾクリとした恐怖となり、まるで質量を伴っているかのように首筋から背中へと降りていく。
見られていたのか? 捕まったらどうなる? 頭が混乱してうまく言葉が出てこない。
たかだか十四歳のガキの人生経験じゃ、こんなときにどうすればいいのかなんてわからなかった。
周囲の人たちから視線が集まる。しょせんはゲームだとわかっているはずなのに、恐怖で頭が真っ白に塗りつぶされていく。
握りしめた手のひらを無理やりに開こうと、大柄の男のゴツゴツとした指先が、無遠慮にアタシの手に絡みつく。
「ねぇ待って、憲兵さん」
これ以上抵抗したら指が折れるんじゃないかというほどの力に涙がにじみ、もうダメだと思ったとき、不意に、穏やかで落ち着いた声が届いた。
「それはお買い物の間、私がその子に少し持っていてもらった物なのよ。だからその手を放してあげて頂戴。ね?」
老婆はそういって、男の腕にそっとその手を重ねた。
優しく微笑む老婆とぽかんとアホ面を晒すアタシを、推し量るようにぎろりと凝視した憲兵の男は、やがて面倒くさそうに舌打ちをして町の人混みの中へと去っていった。
「あ……あの……」
助かったという気持ちより先に、なぜという疑問が沸いてきたが、まずは謝らなくてはと思い直す。
開いた手の平に乗っていた腕輪を老婆へ差し出そうとしたアタシを制し、老婆はまたも意外なことを言い出したのだった。
「ここじゃ落ち着かないでしょう。狭いところだけれど、よかったらうちへいらっしゃらない?」
老婆の家――正確にはその夫と二人暮らしなので、老夫婦の家だったようだけれど――へと招待されたアタシは、決して豪華ではなくとも、品よく設えられた居間で老夫婦と向き合い、なぜか紅茶をごちそうになっていた……。
「その……本当にごめんなさい……」
「もういいのよ。ちゃんと謝れて偉いわね」
お茶だけでなくクッキーまで出してくれた老婆は、先ほどと同じように穏やかに目を細めて笑う。
「でも一つ聞かせてもらえるかしら? なんでそんなことをしたの? あなたはお金に困っていたわけでもないでしょう?」
それを聞かれて答えに詰まる。
アタシにはこの人の持ち物を盗む理由も、必要性もなかったことは明らかだったから。
スキルを手に入れたから試したかった、という言葉が頭をよぎったけど、それはただの言い訳だと思った。
ファミレスでナイフを持ったからって、それでいきなり誰かを突き刺すような人はいない。ナイフは食べるために使うものだ。
私のこの<盗む>だって、使うべき時に使うためのものだったはずだ。
答えを出せないままのアタシを導くように、老婆が優しく言葉を続ける。
「これはね、この人にもらった思い出の腕輪なの」
アタシが差し出した細い腕輪を見つめてそう話す老婆に、夫の老人がつっけんどんな調子で口を挟む。
「ふん……そんな安物をいつまでも、生娘のように喜んで身につけおって」
「ふふ、そうね、大した値段じゃないわ。それでも私にとっては大切な宝物」
そのセリフはどう聞いても照れ隠しだったのだろう。老人は紅茶をあおり、そっぽを向いている。
老婆はそんな夫の様子を愛おしそうに見つめてから、アタシの手から皮ひもの腕輪を取り、腕に巻く。
「あなたがこれを盗った時、本当はすぐにわかっていたわ」
「は!? それじゃ……なんで……」
なんですぐにアタシを捕まえなかったのか。大切なものだったらなおさら。
「あなたにとってこの腕輪がどう見えたのかはわからないわ。けれど少なくともこれより高価に見えたということはないでしょう?」
アタシはその言葉にハッとして、伏せていた顔をあげた。
老婆の左手の薬指に納まるキレイなリングが光を反射して輝いている。
「結婚指輪を盗んだら私が悲しむ、きっとそう考えたんじゃないかしら?」
その老婆の言葉に、アタシは頷くことも首を振ることもできなかった。
たしかにそのことをまったく考えなかったと言えば嘘になる。しかしそんなことを理由に、アタシがさもこの老婆に対する思いやりを持っていたかのように言ってしまうのは、とてもズルいことのように感じたのだ。
どうしていいのかわからずただ押し黙るアタシを、老夫婦はゆっくりと時間をかけて見守ってくれた。
「あなたはとても優しい子。そしてちゃんと自分の過ちを認めて謝れる子……。大丈夫よ、一度も間違えない人なんて、どこにもいないのだから」
――だから、自分の間違いを許してあげて。そしてもし今のあなたと同じように道を間違えそうな人がいたら、どうすれば正しく生きられるのか、一緒に考えてあげてね。
そう言って老婆は優しく私の手を握ってくれた。
回想が続き、本編を楽しみにしていただいてくださっている方には申し訳ありません。
次回でみゃあら回想は終わりとなり、本編に戻る予定ですので、あと少しだけお付き合いいただければ幸いです。





