41.先輩と後輩
「先輩、助けてくださぁい!」
授業が終わるなり教室に飛び込んできた後輩は、私の目の前で膝をつき、その赤い瞳に涙をにじませながらそう言った。
「今度はどうしたの」
この間も似たようなことがあったなぁと思い出しながら、興奮気味のエンジの肩をぽんぽんと叩く。すると未来の騎士様は少し落ち着いてきたようで、最初の勢いは徐々に静まってきた。
「うぅっ、フィオナせんぱぁい・・・」
「はいはい、それで、何があったの?」
彼の中では、何かがあったら私の下へすっ飛んでくることになっているらしい。もはや恒例になりつつあるエンジの襲来に、クラスメイトたちは慣れてしまったようだ。
それにしても、エンジが泣き出しそうになっているので、まるで私が泣かせているみたいになっている。お願いだから早く通常運転に戻ってくれと思いつつ、私はできるだけ優しい声音で彼に声をかける。
「うぅ、すみません、取り乱してしまって」
エンジは気持ちを鎮めることができたのか、姿勢を正して私の手をするりと取った。そして私がぼんやりと眺めている間に、やはりいつも通りに私の手の甲にキスをした。
うーん、回数をこなす度に手慣れていっている気がする。当たり前か。
「大丈夫よ。落ち着いた?」
「はい、ありがとうございます。やっぱりフィオナ先輩は今日も素敵でっ・・・痛っ!」
どすっ、という鈍い音と共に、エンジの頭の上に辞書が落ちてきた。それも分厚い分厚い辞書である。
かなり痛そうだ。
「ごめんね、ちょっと手が滑っちゃった」
「ようエンジ、元気そうじゃねぇか。それなら稽古に付き合えよ」
「あはは、先輩たち、恐いですよー・・・」
顔を上げれば、恐ろしい形相をしたブラッドとドエトルがいた。いや、顔が恐いというよりは、目が恐い。まるで獲物を前にした猛獣のような鋭い目でエンジを見下ろしていた。
そして辞書をエンジの上に落としたのはどうやらブラッドらしい。辞書に書かれた“ブラッド”の文字がちらりと見えた。
「ちょっとブラッド、ドエトルさんも。後輩をいじめないの」
私はエンジの頭をぽんぽんと撫でながら、2人を見上げる。
なぜそんなに怒っているのかは知らないが、まだエンジは彼らに何もしていないはずだ。それとも、ここへ来る前に何かしでかしたのだろうか。
私が諌めると、2人は揃いも揃って溜め息をついた。そして、あからさまに不機嫌そうな顔をする。最も、ブラッドは無表情をさらに固めたような顔だった。
「そりゃないぜフィオナ」
「年下に弱いって、本当なんだ」
2人のオーラが凄まじいからか、教室内の誰もがこちらを見ていた。ちらちらと盗み見るような、恐る恐るといった視線だったが。
皆さん、触らぬ神に祟りなしですよ。
「で、何の用だったかしら」
ちなみにもし万が一エンジが彼の先輩たちに何かをしでかしていたというのなら、擁護できるかはわからない。
後輩の口からどんな言葉が飛び出すことかと半ばひやひやしながら、私はエンジの話を待った。
「あのですね、先輩」
エンジはそう前置きすると、少し申し訳なさそうに言った。
その深紅の瞳に影が落ちる。
「勉強を教えて下さい・・・」
場所は変わって、寮の食堂。
私の座る席の隣にはエンジ、クレアと続いて、前方にはブラッド、ドエトルの2人が並んでいた。
結局エンジのSOSはこうだった。
近く、王国騎士団主催の剣術大会が開催されるのだが、それにエンジは参加するつもりだそうだ。だが、学院の生徒が参戦するには、学業の成績も伴わなければならないという。
そして、エンジは得意な科目の成績は良いものの、苦手な科目の成績は芳しくないらしい。このままでは剣術大会への参加が危ういということで、私たちに教えを請おうと思ったそうだ。
あまりにも必死に頼んできたから何事かと思ったが、蓋を開けてみれば大したことではなかったので少し安心した。とはいえ、エンジの家は代々王国騎士団に仕える家系だ。剣術大会での成績も彼の将来に大きく関わってくるそうで、私たちは勉強を教えることになったのだ。
クレアが一緒にいるのは、食堂に向かう途中で会ったからだ。ただならぬ気配を感じた彼女は、事情を説明すると即座に合流した。
ちなみに、ブラッドとドエトルに何かしたというわけではないらしい。だったらなぜ、彼らはあんなに怒っていたのか気になったが、2人は一向に教えてくれなかった。
しかも、そんなに気に入らないなら着いて来なくていいと言ったのに、なんだかんだと言いながらこうして食堂まで共に来ている。そして、クレアと私が教えている隙から、横槍を入れてくるのだ。
他人に対してそこまで怒る2人ではないのに、珍しい。本当に何があったのだろうか。
「あの、これはどうやって読めばいいんですか・・・?」
エンジは文系の科目が苦手なようで、政治や経済、外国語などに悪戦苦闘していた。物理学や数学は難しいものでもすらすら解いてしまうのに、何事も上手くはいかないものである。
「これはノマード文字の中でも少し特殊な方ね。あまり使うことはないけれど、“ジ”の発音で読めばいいわ」
「なるほど・・・あれ、そもそもこれ、なんていう名前でしたっけ?」
「“イシーダ”ね」
「どうして文字の名前と読み方が全然違うんですか・・・!」
まぁ、ノマード文字初心者にはよくある葛藤である。もともと違う部族が使っていた文字に、無理矢理プロフォンドの言葉を当てはめたのだ。むしろよく使う気になったなと感心させられるほどに。
そしてそのままエンジが語学と格闘すること早1時間。
集中力が途切れたのか、語学から一度離れて歴史に着手することになった。
「ええと、古代ではマナ文化が発達していたのに、急に途切れるんですよね・・・?あれ、何年・・・?」
「それはね、陰暦1889年だから、私は“マナ文化、もういいやはち切れ”って覚えてるよ」
「・・・クレア、すごい覚え方ね」
確かに語呂合わせで覚えるというのはひとつの手段だが、それにしても文章がかなり吹っ切れている。実際に文化に変化をもたらした人物は、いいやなんていうぶっきらぼうな気持ちで行動に移したわけがなかろう。
それにしても、前方からの視線がさっきから鋭いままなのだが、そろそろ不機嫌を直してはくれないだろうか。
私はちらりと顔を上げて、向かいに座る2人を見やる。2人とも腕を組んで、ただじっとエンジの様子を見ていた。
何も言わないのなら、なぜ同席したのだろう。ドエトルに至っては、こんな風に黙した姿をあまり見ないのでちょっと調子が狂う。
なんて声を掛ければいいのだろうか。そもそも声を掛けていいものか。そう思っていると、ブラッドと目が合った。
するとブラッドは息をひとつ吐くと、苦そうな顔をした後、無表情に戻った。けれど、先程までのような凍てついた無表情ではなく、どこか柔らかい無表情だった。
我ながら、柔らかい無表情とはなんだと疑問に思う。
「別に怒っているわけじゃないよ。それにまぁ、勉強を教えないとも言ってないしね」
もしかして私が迷っていたのを感じ取ってくれたのだろうか。ブラッドはそう言うと、エンジが解き終わった課題の紙をひょいとつまんで引き寄せ、ペンでさらさらと何かを書き始めた。
ブラッドの様子を見ていたドエトルはというと、何か我慢の限界とでも言うように吹き出した。そして大笑いしている。
「ムカついたのは俺も同じなんだが、もうなんかいいや。途中から笑いを抑える方に必死だったしな」
「えーと、つまり、エンジをからかってただけってこと・・・?」
だとするなら、随分と質の悪い後輩いびりだこと。そんな先輩を持ってしまったエンジは、さぞ苦労しているに違いない。が、この後輩は案外飄々と生き抜いていきそうである。
「・・・ブラッドさんもドエトル様も、あんまり面倒なことしているとフィオナちゃんに嫌われますよ」
両肘をテーブルにつけ、掌に顎を乗せたクレアが呆れたようにそう言った。
「それはそうね」
私がクレアに賛同すると、目の前の2人がぴしりと固まった。そして隣から明るい笑い声が聞こえた。
しかしクレアの言葉の砲弾は、静かに私の方へと照準を変える。
「でもフィオナちゃんもフィオナちゃんだよ。エディ君のせいなのかな、年下に弱いのは」
「うっ・・・それを言われると返す言葉がないわ。だって、みんなエディみたいに弟に見えて可愛いんだもの」
そして今度はエンジの動きがぴたりと固まった。反対に前方から笑い声が聞こえる。
なんだか今日はクレアに勝てる気がしない。何かを言えば、倍になって返ってくるような気がする。
「あ、そろそろ休憩しませんか・・・?」
疲れてきたのか、エンジがおずおずとそう言った。
「そうね。そうしましょう」
かなり長い時間集中していたので、確かにそろそろ休憩を挟んでも良さそうだ。私はエンジに賛成したが、ドエトルがあの意地の悪そうな笑みを浮かべて口を開く。
「元はといえばエンジが頼んできたことだろ」
「えー、休憩挟まないと効率悪くなるって言うじゃないですかー?」
「ああ言えばこう言う・・・」
開き直ったようなエンジの態度から、ドエトルの扱いを心得ているような雰囲気が感じられた。やはり、エンジは世渡りが上手そうである。
「まあまあ、エンジ君が頑張ってるのは事実だし。フィオナちゃん、お茶淹れに行こう」
「ええ、少し待っててね皆」
軽口を叩き合う彼らを置いて私とクレアは席を離れ、お茶を淹れに行くことにした。
「じゃあその間にこれを読みなよ」
「うわっ、解説がびっしり・・・。ブラッド先輩、いつの間に」
ブラッドが書いていたのは、問に対してのあらゆる解説や関連事項だった。なるほど、関連づけて覚えるというのもよく聞く暗記法だ。
それにしても、ちらりと見えた情報量だけでも相当なものだった。正直ブラッドは敵に回したくないと思った瞬間だった。
結局そのあとはドエトルとブラッドによるスパルタ勉強会が繰り広げられることになった。
なんだかんだ言いつつ、彼らにとってもエンジは可愛い後輩のようだ。でなければ、わざわざ時間を割いてまで構ってやろうとなんてしないはずだ。
そして実は初めて聞いたのだが、ドエトルは理系より文系に強いらしい。未来のウィスタリア領主様なら、政治学や経済学、はたまた語学などに通じているのは有利かもしれない。
外はすっかり暗くなり、食堂へは生徒たちが夕食を求めて集まってきた。ざわざわと喧噪が広がる中、エンジの嬉しそうな声が大きく響く。
「終わったーー!」
「お前な、課題が終わっただけじゃ意味ねえぞ。試験をパスしなきゃなんねえんだろ」
「それはそれ、これはこれですよ、ドエトル先輩」
ところで、エンジには頼れるクラスメイトや仲の良い友人はいないのだろうか。毎度私たちのところに来るので少し心配になってきた私は、エンジに問いかけてみる。
するとエンジはけろっとした態度で、そんなことないですよ、と返してきた。
「ほら、あそこの茶色い髪の生徒とか、向こうの席にいる金髪の生徒とか、俺の友人です。それに俺、クラスメイト全員と仲良いですよ、心配しないでください」
「だったらどうして、毎回毎回私のところに来るの」
「そりゃあ、フィオナ先輩に会いたいからです!それ以外にあります?」
にこにこと最高の笑顔でエンジはそうのたまった。言葉通りの意味しか頭になさそうで、ある意味安心できる。
「もしかして、ご迷惑でしたか・・・?」
私が何も言わないので、エンジはしゅんと項垂れてしまった。駄目だ、また犬の耳が見える。
「え、あ、そんなことはないけれど、ちょっと心配になっただけよ」
「良かった!やっぱりフィオナ先輩は優しいですね!どこかの誰かさん達と違って!・・・痛ぁっ」
足を痛そうに抱え込んだエンジの様子から、ブラッドが彼の脛を蹴ったようだった。テーブルの下で蹴るなんて、足が長くて羨ま・・・行儀が悪い。
「ごめんね。床が滑っちゃった」
「よくやったスタキオース。もっとやっていいぞ、こいつ頑丈だから」
「うわあん、ひどいですよ先輩たち!」
にやにやと笑いながらあしらう先輩たちに、エンジはこれからもたくさん構われそうだ。なんだかんだでエンジも先輩2人も楽しそうなので、少し安心である。
あとは、エンジが試験を無事にパスするのを願うだけ。




