躰の奴隷
ご主人様は、私に冷たく接する。名前で呼ばれることもない。
でも、それもしょうがないこと。私は奴隷。そもそも、やさしくされる筋合いにはない。
ただ、冷たくされても悲しくはなかった。悲しい、という感情が分からないのだ。生まれもってのことだから、今さらそのことについてどうこうとは考えない。
だが、悲しくはないが平気でもなかった。冷たくされつづければ、躰に不都合も生じてしまう。少しでいいからやさしくしてほしい。愛情をそそいでほしい。
しかし、それは叶わぬ願いなのかもしれない。そんなことは契約に入っていないし、そもそも私は、その契約の相手ですらないのだから。
この屋敷にはじめてきたときのことが脳裏に浮かんだ。そのこと自体が不調の証だ。前のご主人様に仕えていたときには、そんなことは一度もなかったのだから。
私をここに連れてきたのは、他でもない、前のご主人様だった。旧知の間柄だったらしい今のご主人様に対し、彼はこう言った。
――飽きたんだ。買わないか?
その自然な口調に、以前にもこのようなやりとりがあったのかもしれないな、と考えた。
記憶を辿ると、買わないかと言われたときから、ご主人様の表情は、決して良好なものではなかった。自分のことを気に入りはしなかったのだな、とすぐに分かった。だから、この売買契約は成立しない、そう予想したのだが、今のご主人様に選択権はなかったらしい。彼は嫌そうに私を買った。
選択権がない、ということについては私も同じだった。私について交わされた契約、命令に従う他ない。
べつに、今のご主人様に買われることを不安に感じたわけではない。私には不安という感情もないし、それはどういったものか、という興味もなかった。ただ、飽きるとはどういう感情なのだろう、とは考えた。
私が今のご主人様に嫌われている理由。それはすぐに判明した。原因は、私の躰の色だった。これがご主人様の趣味に合わなかったのだ。
でも、躰の色は私が決めたわけじゃない。それに、たとえ躰が何色であろうとも、お勤めに支障はないはずだ。さらに言えば、見たくなければ見なければいいだけのことなのだ。
そんなことは関係ないのだろうか。この色は、前のご主人様の好みだった。あるいは、そのことが気に入らなかったのかもしれない。
――その黄色い躰を見ていると虫唾が走る!
ご主人様は、そう吐き捨てるように言い残し、外へ飛び出していた。
一人取り残された私は、いつものように家事をしていた。家事は私にとって最重要事項であり、つつがなく行うことが私の存在意義だと考えている。だが、仕事ははかどっていたなかった。最近、躰の調子が悪く、思うように動かないのだ。
躰の不調は、どうしてなのだろう、頭にも影響を与えていた。思考がシーケンシャルになり、しかも後ろ向きになっていた。必要もないのに、先ほどから過去の出来事を思い出してばかりいる。躰のことよりも、頭がそういった状態であることが問題に思えた。
ご主人様が部屋に戻ってきた。私は意識を今に戻す。
――塗り替えてやる。おまえもそんな色は嫌だろう?
左手にバケツ、右手には刷毛を持っていた。
ご主人様が近づいてきた。私は目を閉じた。何色なのだろうと考えていた。
刷毛が、まずは顔を撫でた。撫でられた左ほほに、わずかな圧力、そして冷たさを感じた。直にペンキを塗って大丈夫なのだろうか。私に選択権はないのだが。
顔を塗り終わり、刷毛は胸元を這っている。私は目を開けた。まぶたに塗ったペンキが乾いておらず、垂れてきたそれが目に入った。世界が白く染まる。ああ、これがご主人様の趣味か。覚えておけば、何かいいこともあるのだろうか。
白という色は、何者にも汚されていない清廉なものをイメージさせる。そのため、ある予想が頭に浮かんだ。それは、初期化もされるのではないか、というものだ。
色を塗り終え、ご主人様はご満悦だった。ペンキが乾いてから、久しぶりに油を点してくれた。間接の不調からの脱却は、結果的に思考のスムーズ、また健全さに繋がった。
思考が同時多方向なものに、つまり自由な状態に戻った。
だが、躰の不調を経験した今、そのことを素直に喜べなかった。
自由に見えても、思考とはつまり、砂で作られたステージ上でのダンスのようなものでしかない。
私のコアは、躰の奴隷だ。
読んでいただき、ありがとうございました。