運命の月曜日6
本能的な恐怖というものを、あの瞬間に勇哉は初めて味わった。体中をぞわぞわとした悪寒が襲いかかり、危険を知らせるシグナルがひっきりなしに頭の中に点滅していた。
自分はここで死ぬんだ。そう思った。
けれど、死ななかった。
揺れがおさまり、辺りが静まってきて、ようやく我が身が無事だということを知った。生きているという、ただそれだけのことを、そのとき勇哉はこれ以上なく実感した。そのことを安堵するに至るまでには少し時間がかかったが、とにかく勇哉は生きていた。
勇哉は、一緒にいた雄一や透もそこに無事でいたことを確認した。校庭にいた他の生徒たちも、遠目に見たところ、特に怪我などをした様子はうかがえなかった。
さらに他にも視線をめぐらせてみる。いた場所が校庭ということもあり、目に見える範囲では、特になにかが落ちてきたり倒れてきたりというようなこともなさそうだった。空はまだ曇ってはいたが、雷は過ぎ去ったようで、雷鳴はもう聞こえてこない。雨も今のところまだ降ってはいなかった。
次に勇哉が確認したのは、校舎の存在だった。あの地震で、もしかしたらそれは崩れ落ちているかもしれないと、頭のどこかで考えていた。
しかし、そこにはいつものように見慣れた校舎が存在していた。近くで見てみなければくわしい状況はわからないが、校庭から見るそれは、何事もなかったかのように平然と建っているように見受けられた。
とりあえず、勇哉は雄一たちと校舎の様子を見に行くことにした。校庭にいた他の生徒たちも、そろそろと動き出している。
校庭から校舎へとのぼる短い階段までくると、階段の途中からは亀裂が走っていた。その亀裂はかなり大きく、地震の大きさをそのまま物語っていた。階段をのぼった先には、さらに深い亀裂が斜めに走っていて、裂け目からは不気味な闇がのぞいていた。
言いようのない不安から、早く大人に会いたいと思った。なにかいい助言を与えて欲しかった。そこで、勇哉たちは校舎内に残っているはずの先生たちを捜すことにした。
一番に向かった場所は、職員室だった。しかしそこに人の姿は見当たらなかった。声をかけてもなんの反応もない。雑然とものが散らかった職員室内は、それだけで尋常ではない雰囲気を醸し出していた。
しかし、どこかに誰かが必ずいるはずだった。勇哉たちは最初三人で一緒に行動していたが、途中で別れ、手分けして大人を捜すことにした。他の校庭にいた女子たちも途中で捜索に加わり、勇哉たちは校舎内を手当たり次第に見て回った。
校舎内は、至るところで棚やいろいろなものが散乱していた。ぐちゃぐちゃに乱れた机や椅子。ロッカーや机から飛び出した教科書や道具類。廊下を塞ぐ掃除道具。ところどころで窓ガラスが割れているところもあった。図書室の扉を開けたときには、その無惨な光景に思わず目を疑った。
勇哉はそんな光景を何度も目の当たりにしながら、だんだん奇妙に思えてきた。こんなに校舎内を見て回っているのに、先程から誰にも遭遇していない。校庭にまだ幾人かの生徒が残っていたことからしても、何人かは校舎内に残っていてもおかしくはない。少なくとも、先生たちはみな校舎内に残っていたはずだ。先程の地震でそのうちの誰かが動けない状態にあるとしても、その他の先生はいったいなにをしているのだろう。動ける先生なら、大声で助けを呼んだり、なにか行動を起こしていてもおかしくはない。
それなのに、この静けさときたらどうだろうか。校舎内に、自分たち以外の人がいるような気配がしない。そんなはずはないと思いながらも、もしかしたら先生たちはここにはいないのではないかという思いが胸に広がった。
ひと通り捜索を終えて最初に入ってきた昇降口まで戻ると、そこにはすでに雄一や透が戻ってきていて、他にも三人の女子たちが集まっていた。
「そっちはどうだった?」
雄一の質問に、勇哉は力なく首を横に振った。
「そっちも見つからなかったみたいだな」
「うん。でも、絶対おかしいよな。先生たちどころか、他の生徒の姿も見当たらなかった。いないはずないのに」
そうだ。いないはずはないのだ。
けれど、いるはずのこの校舎にはここにいる生徒たちの他には誰もいない。
「もしかして、とっくに先生たちも帰ったんじゃない?」
そう言葉を発したのは、三組の水城さえという女子だった。肩上くらいの髪の、お洒落系の女子だ。勇哉とは二年のときに同じクラスだった。他の二人は、一人は短髪で背の高い女子と、もう一人は少し小柄な女子で、こちらはたぶん後輩なのだろう。
「帰ったって、自宅にか?」
「うん。先生たちだって、家族とか家のこととかいろいろ心配だろうしさ」
「でも、俺たち生徒を置いてさっさと自分たちだけ家に帰るなんて、普通するか? まずは生徒の安全を確保するのが最優先だろう」
勇哉の言葉に、さえも「確かにそうだよね」と首を傾げてみせた。
「体育館は? この辺の地区の避難場所になってるはずだよな。そっちの設営みたいなのにまわってるんじゃないのか?」
しかしそれにも期待した答えは返ってこなかった。
「体育館にも人の姿はなかったよ。避難してきてるような人の気配もなかった」
透がしきりに瞬きをしながら言った。落ち着かない様子だ。
「とにかく、学校に今他に誰もいないってことは、ちょっと考えられないことだけど、先生たちも帰ったってことだ。ってことは、俺たちも一旦それぞれの家に帰ったほうがいいんじゃないか?」
「そうだな。そうするか。家が無事か心配だしな」
勇哉と雄一はそれぞれうなずきあい、落ち着かない様子の透の肩をぽんぽんと交互に叩いた。そうして勇哉たちは外に出て行った。その場にいた水城さえたち女子も、お互いに言葉を交わしながら外に出た。
昇降口付近には、他にも生徒の姿があった。そこにいたのは、生徒会長でもある清川直と、もう一人はぽっちゃりとした体型をしている吉沢千絵という女子だった。傍目に見るとアンバランスな二人だが、なぜかこの二人は仲の良い友達同士であるらしい。彼女らと勇哉は、一年のときに同じクラスだった。
「清川さん。先生たちどこ行ったか知らないか?」
彼女ならなにか知っているかもしれないと思い、勇哉は近づいていって訊ねた。
「職員会議だってことは聞いてたけど、わたしもくわしいことはわからないわ」
「会議って、いつも一階の会議室でやるんだよな。でも、そこにも誰もいなかった」
「わたしも外から確認したわ。でもおかしいわよね。先生たちがこんなふうにいなくなるなんて」
「うん。先生たちもだけど、校舎内にも生徒は誰一人残っていなかった。そんなことありえないはずなんだけど」
すると、直がぽつりとつぶやいた。
「なんだかまるで、わたしたちだけがここに取り残されたみたいね……」
直の言葉に、勇哉はどきりとした。
取り残された。
先程から蒙昧として浮かばなかった不安ななにかを、その言葉はうまい具合に言い表しているように思えた。
(俺たちはここに取り残された)
しかしすぐに、勇哉は首を横に振る。
「そんなわけあるかよ。だいたいなにに対して取り残されたって? 先生たちに見捨てられて置き去りにされたって意味?」
直も、勇哉の言葉に否を言うつもりはないようだった。
「ううん。そういうことじゃない。自分自身でも変なこと言ってると思う。ただ、漠然とそう思っただけ。気にしないで」
直はそう言って、不意に視線を遠くへやった。勇哉もつられてそちらに目を向ける。そちらのほうには、勇哉たちの住む町があった。上空にあるのは、ずっと遠くまで続く灰色の雲だ。今は雨はまだ降り出してはいないが、すぐにでも降ってきそうな空の色をしていた。その空の下に、町は薄暗い澱のように存在していた。そして、そのところどころからは火の手があがっていた。
「火事だ……!」
「本当っ! うちのほう大丈夫かな……?」
勇哉とさえが交互に叫んだ。他の面々も、町の様子に騒ぎ出した。
「清川さん。さっきもみんなと話してたんだけど、とりあえず一旦それぞれの家に帰ろうってことになったんだ。いつまでもここにいたって仕方ないし、家のほうも心配だ。もしまた避難しなきゃならないってことになったら、そのときはまたここに戻ってこればいいわけだろ?」
勇哉の言葉に、直は振り向いてうなずいた。
「そうね。そうしましょう。千絵ちゃんも、行こうか」
「うん」
隣にいた千絵もうなずく。しかし直はすぐにはその場を動かず、代わりに勇哉にこんな質問をしてきた。
「そういえば、鷹野くん。時計とか持ってる?」
いきなりなにを言い出したんだろうと勇哉が面食らっていると、彼女はこんなことを言いだした。
「時計が止まってるの。地震で壊れたんだと思うんだけど。これ」
彼女が勇哉に向けて見せた腕時計は、確かに動いていないようだった。秒針は微動だにしない。そして時刻は四時二十九分を差して止まっていた。
「千絵ちゃんのはデジタル式なんだけど、そっちも止まってるの。偶然にしても、なんだか気になって。ね?」
直が千絵のほうに目配せすると、彼女も同意するようにうなずいた。
「時計か。俺は持ってないな。あ、っていうかスマホの存在忘れてた」
勇哉は大事なことを思い出したように、肩から提げていた自分の鞄からそれを取り出した。電源が切ってあったそれを、とりあえずつけてみる。起動音が鳴り響き、待ち受け画面が現れた。
「ん? おかしいな」
勇哉は自分の携帯画面がいつもと少し違うことに気がついた。電波を示すマークが圏外になっているのだ。さらに不思議なことに、時計の時刻が四時二十九分を表示している。直の時計が地震の際にその時間で止まっていたということは、今はそれよりも時間が進んでいなければおかしい。それなのに、勇哉の携帯電話は四時二十九分のままだった。
「どうかしたの?」直が不安そうに眉を寄せた。
「いや。時刻表示がさ……」
勇哉は携帯の画面を彼女に見せた。すると、彼女は大きく目を瞠った。
「そんなまさか……」
直のつぶやきを、勇哉は聞き逃さなかった。
「なんだよ。まさかって。清川さん、なんで時計止まってるか知ってるの?」
「あ、ううん。ただ、さっきも校舎の時計見たときになんだか気味悪く思ってたから」
「校舎の時計?」
「うん。鷹野くんも一度見てみる?」
直はそう言うと、校庭におりていった。勇哉もそれについていく。千絵も黙ったまま直に従っていた。直はしばらく歩いていくと、振り返って校舎のほうを見つめた。
「ほら、あれ」
直が示した先にあったのは、校舎の中心の高い位置に設置されている丸い時計だった。特になんの変哲もない、見慣れたはずの普通の校舎時計である。
しかし、今はそれがとてつもなく不気味なものであるかのように勇哉には思えた。
「なんでだよ……」
勇哉は思わずそうつぶやいた。
校舎時計の針は、四時二十九分を差したまま止まっていた。