静寂の金曜日11
「そうね。とりあえずこの文書のことも気になるけど、一旦ここは休憩にしましょう」
直の号令により、メンバー全員はそこで小休止することになった。各自にカロリーメイトや菓子が配られ、温かい紅茶が一人ひとりのコップへと注がれていった。
「うん。生き返った」
「ホント、ほっとします」
みな紅茶を飲むと、口々にそう言っていた。紅茶は今朝、千絵が作って水筒に入れておいたものらしい。
勇哉もひと口紅茶をすすり、その液体を喉に流し入れた。温かい紅茶が喉から胃のほうへと流れていくのが、はっきりとわかる。それがなんとも言えず心地よく、じんわりとしたぬくもりをそこに感じた。あまりのおいしさに、たまらず一気にそれを飲み干すと、それに気づいた千絵が再び水筒を持って勇哉に近づいてきた。そして空になったコップに、再び紅茶を注ぎ入れてくれた。琥珀色の液体が波紋を作り、そこから温かな湯気がふわりと浮かびあがった。
「……ありがとう」
勇哉が礼を言うと、千絵は、はにかみながらそれにうなずいていた。そんな様子に、勇哉も自然と笑顔を浮かべた。千絵にはなにか人を癒す雰囲気がある。勇哉は、そのとき初めてそんなことを思った。
しばらく教室内には、穏やかな時間が流れた。殺伐とした出来事の連続で、誰もが心身ともに疲れ切っていた。束の間の休息だが、この時間の効能は計り知れないほどあった。
「ごめんね。まだもっとみんな休んでいたいところだと思うけど……」
女子たちがゴミを集めたりコップを集めたりし始め、休憩時間も終わりという空気になったころ、直がそう口を開いた。
「いや。これだけでも結構休めたよ。それで、さっきの文書のことについて話し合うんだろ?」
勇哉も、ようやくいつもの調子を取り戻してきた。いつまでも立ち止まって怯えているわけにはいかない。直がこれだけ頑張ってみなを引っ張っていってくれているのだ。それに応えるためにも、弱気を見せるわけにはいかない。
直は黒板の前まで進み出て、そこに貼られたままの文書を一度じっと見つめてからみなのほうを振り向いた。
「では、今鷹野くんからもあったように、この文書のことについて、今からみんなの意見を聞いていこうと思います。なにかそれについて異論がある人はいませんか?」
直の問いかけに、みな沈黙で応えた。
「ないようなので、次に進みたいと思います。ではまず、わたしから意見させてもらいます」
直は教卓の前に立ち、教室内を見渡した。
「現時点ではっきりしていることは、この文書が貼られたのが、わたしたちが水野くんの自宅まで出かけていた間ということ。そしてそれができたのは、当然ここにいるメンバー以外の誰かということになります」
直はそう言うと、勇哉のほうに視線を向けてきた。
「鷹野くん。あのことについて、もうみんなに話をしてもいいころかと思うんだけど、いいかしら?」
そう言われ、勇哉は何度か瞬きを繰り返した。
あのこと、というのはつまり、あのことだ。怪文書についての話をしている今、他にはないだろう。第二の文書は、ここにいる誰かには貼ることは不可能だった。それがはっきりとしている今、それについて触れても構わない。彼女はそう判断したのだろう。
勇哉はゆっくりとうなずき、彼女に視線を合わせた。彼女もまた、勇哉の視線をまっすぐに受け止め、なにかの決意を滲ませるようにしっかりとうなずき返した。
「実は最初の文書のことで、ある可能性が浮上していました。しかしそれは、想像の域を出ない話であり、みんなに話すことで無闇に混乱を招くことになるという理由で、今まで黙っていました。そのことについてはこちらの独断だったこともあり、みんなには申し訳なく思っています」
直の話をみな静かに聞いていた。みなじっとその声に耳を傾け、ひと言も聞き漏らすまいとしていた。
「最初の文書が貼られていたのは、宮島くんの証言によると、西昇降口の扉の内側でした。そしてそのときの段階で、西昇降口の扉には鍵がかけられていた。普通に考えて、文書は校舎の内部から貼られた。つまり、あのとき校舎内にいた人物が文書を貼った可能性が高いということになります」
直がそこまでを話すと、教室内はざわめきで揺れた。
「どういう意味だよそれ。校舎内にXがいたってことか……?」
透が呆然とした顔を浮かべた。
「いや、まだXと貼った人物とが同一だとははっきりしない。今は文書を貼った人物についてを話している」
「Xとそいつは同じじゃないのか?」
「それはまだわからない。とにかく第一の文書はあの夜校舎にいた誰かが貼ったのだと考えられる」
「誰かが侵入してきてたのか。それとも……」
言いながら、透はそれに気がついたようだった。
「俺たちのうちの誰かがやったって言いたいのか?」
「わからない。とりあえず現時点ではっきりしていることは、第二の文書についてはここにいるメンバーには貼ることはできなかった。少なくとも、これを貼ったのはここにいない人物であることは間違いない」勇哉の言葉に、再びみながざわめいた。
「でもXの正体は水野なんだろ? 貼ったのも水野じゃないのかよ」
透の言葉に、勇哉は神妙な顔で首を横に振った。
「Xの正体は確かに水野くんなのかもしれない。だけど、文書は彼でなくても貼ることはできたはずだ」
「なんだよそれ……」
「これは可能性の話だ。なにもそれが真実だとは言っていない。とにかくまずわかっていることだけを、事実としてあげているんだ」
「そうね。事実と未確定の話を混同して考えないほうがいいわ。とりあえず、今言えることについて話し合いましょう」
直がそうまとめると、透は憮然としながらも口を閉ざした。
「で、さっきの話に戻って考えると、第二の文書を貼ったのはここに今いない人物ってことなんだよね。でも佐々嶋たちがこんなことに関わっているとも思えない。そうなると……」
続いて発した雄一の言葉に、亜美がたまらずといったふうに声を荒げた。
「さえ先輩と景子先輩のどちらかが犯人だって言うんですか? そんなこと……っ」
「彼女たちも、もちろん第一の文書を貼ることはできた。仕掛け人は彼女たちのどちらかか、もしくは二人ともそれに関わっていたということは考えられないことじゃない」
「違います! そんなのでたらめです!」
「静かに!」直が鋭い声でそう言うと、教室内は一斉に静まりかえった。
「まだ話は終わっていません。もう少し黙って聞いてください」
彼女は仕切り直すようにそう言って、ひとつ呼吸をしてから再び話し始めた。
「先程の話のように、わたしたちメンバーの中に犯人がいる、というのもひとつの可能性としてあります。でも、可能性はそれだけではありません。犯人は、やはり外からやってきた人物だということも考え
られます」
「だから、それらのことを全部踏まえたうえで、第二の文書のことや、これまであった出来事のこと、そしてすべての犯人のことについて考える必要があると思うの」
直の話に、みな少なからず困惑した表情を浮かべていた。勇哉は事前に彼女と話していたこともあって、それほど動じることはなかったが、それでも心臓は落ち着きなく拍動していた。他のメンバーが戸惑うのも無理はないだろう。
勇哉はひと呼吸してから、直から話を引き継ぐように言葉を発した。
「とりあえず、第二の文書を貼れたのはここにいるメンバー以外であることははっきりしている。そうなると、それをできた人物は必然的に絞られてくるだろう。佐々嶋たちの仕業だという意見もあるだろうが、自分たちを告発するような文書を彼らが貼るというのは考えにくい。とすると、犯人はまだ俺たちの会っていない外部からの侵入者か、もしくは水城さんか田坂さんがやったということが疑われる」
勇哉は声を低めながら、その名前を言った。亜美は今度はそれには俯いたまま、なにも言わなかった。
「そして、もし水城さんと田坂さんの二人のうちのどちらかが第二の文書を貼った犯人だとするなら、必ずしも犯行が単独で行われたわけではないかもしれない。もう一人もそれに協力していたということも考えられる」
もしそうであれば、今現在二人の消息が掴めないことも、それの説明になるだろう。
「本当に佐々嶋たちは、文書に関わっていないのかな?」
透の問いに、勇哉はうなずいた。
「まあ確証があるわけじゃないが、あいつらの性格とか今までの態度から、そんなまどろっこしいやり方をするなんてちょっと考えられないと思わないか? やるなら堂々とこれみよがしにやってるんじゃないかな?」
「ってことは、やっぱりさっきの説が有力ってことか」
透は渋い顔をして言った。
「そういうことになるだろうな」
「……でも、もし文書を貼った犯人や協力者がメンバーの中にいたとしても、それを指導した首謀者は他にいるんだろう? つまり、差出人のXが。その人物はほぼ確定しているんじゃないのか?」
透の言葉に、その人物の名前を心に浮かべた。
「……水野正、か」
勇哉の発したその名前に、異を唱えるものは誰もいなかった。すべての事柄が彼へと繋がっている。二年前にあったといういじめ。それに対する復讐。そう考えればすべてのつじつまが合う。
「だけど、不登校だった水野くんが、たまたまあの地震のときに学校に来ていたなんてことがあるのかしら? わたしたちが立てた仮説で言うと、この世界に今いるのは、あの日あのとき校庭にいた人物だけ。この世界に彼がいるのだと考えるならば、そのときに彼は学校に来ていたことになる。もしそうだとするなら、彼はどうして学校に来ることにしたのかしら? もう一度、学校へ戻ろうとしていたのかしら?」
直の話した疑問は、勇哉も考えていたことだった。不登校だった彼が学校に来ていたのだとしたら、それはどういう理由からだろう。直の言うように、学校へ戻ってやり直すつもりだったのだろうか。それとも、なにか他に理由があったのだろうか。
彼がこの世界にもしやってきているのだとすれば、たまたま学校にやってきてあの地震に襲われたことになる。そして、限られたものたちしか残されていない、奇妙な世界へと迷い込んでしまった。
それは、彼にとっては突然降って沸いた復讐の好機だったに違いない。天が復讐をせよと言っている。そんなふうにとらえてしまうかもしれない。まっとうに生きることに疲れてしまった彼が、狂気に走ったと考えるのは、想像に難くない。
「彼は本当に学校に来ていたのか。もしそうだとして、それがどんな理由からかは今はなにも俺たちに知ることはできない。本人に聞くことができればそれははっきりするだろうけど、本人が姿を現さないことにはそれもできない」
結局のところ、自分たちはなにも掴めていないのだ。これが彼のたくらみだと匂わせる事柄はあっても、それを証明する確実なものは今のところなにもない。文書の筆跡は確かに彼のもののようだったが、専門家でない自分たちには絶対にそうだと言い切れることではない。
結局ここで話に出てくるのは、実体のない彼の影でしかないのだ。
「水野くんの家で、彼がいるという痕跡を見つけることはできなかった。本当に彼がこの世界にいるのかどうか、まだはっきりとはしていない。現時点で彼の仕業だと決めつけるのは、やっぱり時期尚早だと思うわ」
「そうだね。実際に彼の姿を見た人物がいないんだ。それは仕方がないと思う」
直や雄一もそう言った。けれど、その表情には迷いがあった。口ではそう言ってはいるものの、犯人は彼ではないかという疑いは、確実に彼らの中に根付いているようだった。
「とにかくわたしたちには、今できることをしていくしかこれに対処できる方法はない。犯人が危険な思想を持っている恐れがあることからも、それに対処できるよう準備をしておくべきだわ」
直の言葉に勇哉が訊ねた。
「準備って言っても、なにをどうするつもり? 向こうがなにかの攻撃を仕掛けてきたときのために武装でもしておくってこと?」
「武装とまでおおげさにする必要はないと思うけど、できるだけメンバーが一人になることのないように行動していかないといけないと思う。そして、周囲になにか異変はないか気を配っておく。警戒を厳重にしておくっていうことね」
「けど、そういう意味で言うと、まず一番に危険なのは佐々嶋たちだよな。一応注意は促してはおいたけど、あの様子だとあまり本気にしてなかったみたいだった。もう一度忠告に行ったほうがいいだろうな」
「そうね。ここではなにが起こるかわからない。なにかが起こる前に、それを食い止める手段を講じておかないと」
みな緊張した面持ちで、それぞれうなずき合っていた。