静寂の金曜日9
水野正の自宅には、職員室で見つけた個人記録表に記載されていた住所を頼りに向かった。その道すがら、亜美の前にいた江藤先輩が鷹野先輩とこんな会話をしていた。
「そういえば文書を貼り付け直してたときに、ひとつ気づいたことがあるんだ」
「気づいたこと?」
江藤先輩はそう言うと、手に持っていた文書の左端の文字を指差した。
「このXっていう文字、他の文字とちょっと文字の濃さが違うと思わないか?」
「本当だ。でも、それがどうしたっていうんだ? たまたまそうなっただけじゃないのか?」
「まあ、そうかもしれないけど、なんだか不自然に感じてね。まるでそこだけあとから付け足したような感じがするんだ」
「付け足した? Xっていう文字だけ? お前の考えすぎなんじゃないのか?」
鷹野先輩は江藤先輩の言葉を一笑に付していた。しかし江藤先輩は、文書を見つめたまま、なにか考えているふうに見えた。
やがて一行は、水野家へとたどり着いた。そこは川沿いの古いアパートで、水野家はそこの一階の突きあたりにあった。水野と書かれた表札の出ているドアを前にして、亜美は息を呑んだ。
「ノックしてみましょうか」
直先輩が言うと、鷹野先輩が前に出てきた。
「俺が代わりにするよ」
彼はそう言うと、そのドアをコンコンと叩いてみた。しばらく反応を待つが、部屋の中ではなにも物音がする気配はなかった。
「……いないようだな。ドアは……やっぱり閉まってるよな」
鷹野先輩はドアノブをガチャガチャと動かして確かめたが、鍵は開いてないようだった。
「どうする? 家の場所といないってことがわかったってことで、今日のところは帰るか?」
「そうだな。鍵も閉まってるし、どうしようもないもんな」
鷹野先輩と宮島先輩がそう話していると、直先輩がふと気づいたように言った。
「ちょっと待って。こういうとき、よくドラマとかで……」
彼女はそう言いながら、ドアの横に並べてある植木鉢を、次々に持ちあげ始めた。
「え。まさか今どきそんなところに……」
「あった!」
直先輩がそれを取りあげ、みなに向かって見せた。その手には、銀色の鍵が光っていた。
無断で部屋の中に入ることに少しだけ罪悪感が沸いたが、みな割と平気そうに足を踏み入れていっていたので、亜美もそれに続いていった。
「部屋の中は荒れたままだな……」
江藤先輩の言葉通り、部屋の中は地震の際に散乱したであろう食器や雑誌類などがそのままの状態で放置されてあった。
「この状態を見る限りでは、ここに誰かが戻ってきて生活しているとは思えないわね」
直先輩がベランダへと続く窓の外に目を向けながら言った。
「これ、水野くんの勉強机かな?」
そう言ったのは、鷹野先輩だった。そちらを振り向くと、そこには確かに勉強机が置かれてあった。奥の部屋の片隅に置いてあるその古びた机は、亜美の持つものと比べ、とても簡素なものに見えた。
「やっぱりこのノートの文字、あの文書のものと一緒だ。あれを書いたのは水野くんだということは間違いなさそうだな」
鷹野先輩は、机の上に開かれてあったノートを見ながら言った。
「あんな文書を書いたのは、やっぱりいじめのせいよね。人生や人間に絶望して……。彼、すごく世界を恨んでいたのね……」
直先輩はとてもつらそうにそう言葉にした。
「ここでずっと、たった一人で過ごしているのって、いったいどんな気持ちなんだろうな……?」
机の前に立ち尽くしたまま、鷹野先輩はそんなことを言った。その言葉に、そこにいる誰一人として、なにも答えることはなかった。
水野正の家では、結局特に目立った収穫はなかった。わかったことと言えば、今そこに水野正本人はいないということと、文書の筆跡のことだけだった。
「とりあえず、今日のところはもう学校に戻って休むことにしましょう」
直先輩の提案に、メンバーのみなはうなずいた。
メンバーはみな、再び川沿いの道を学校へと向かって歩いていた。帰りの道すがら、三年生のメンバーたちは、おのおのしゃべりあったり、携帯の電波状況を確認しあったりしていた。しかし、亜美は一人列から離れ、川を眺めながらとぼとぼと後方を歩いていた。
地震が起きてから、もう四日が経過しようとしている。家族に会えないことが、日増しに亜美の不安を増大させていた。それを紛らわせてくれていたのは、他でもないバレー部の先輩であるさえ先輩と景子先輩だった。彼女たちが姿を消してしまった今、亜美の心はかろうじて引っかかっていたところから離れ、寄る辺ない布きれのように流されようとしていた。
寂寞とした気持ちが亜美の心を支配していた。家族や友人たちと過ごした日々のことが、遙か向こうのほうへと遠ざかっていき、手が届かないところへ行ってしまったような気がした。
(なんでこんなことになってしまったんだろう。なんでわたしばかりがこんな目に遭わなければいけないんだろう)
川の流れを見つめていた亜美は、急になにもかもが嫌になり、今すぐにその場から逃げ出したい気持ちになった。前を歩く先輩たちから離れて、どこか遠くへ行ってしまいたいと思った。
亜美はぴたりとそこで立ち止まり、胸の裡に吹きすさぶ荒涼とした風の音を聴いた。
この風に身を任せてしまおう。
そうすればきっと、楽になれる。
この不安から逃れられる。
亜美はなぜかそんなふうに思い、くるりと踵を返すと、他のメンバーとは反対の方向へと歩き始めた。
逃げてしまおう。この世界から逃げてしまおう。ずっとずっと遠くまで行けば、ここから逃れられるのかもしれない。
さえ先輩も、きっとこんな気持ちだったのだ。とにかくどこかへ行ってしまいたい。そう思ったのに違いない。
亜美は知らず、走り出していた。道路に置き去りにされた車や自転車が目に入るのが嫌で、空を見上げながら走っていた。
後ろから誰かが呼ぶ声が聞こえてきたけれど、亜美は振り向かなかった。ただただ全力で走っていた。
空の雲が延々と続いている。雲の隙間から青空だって見えている。それなのに、どうしてここは前いた世界とは違うんだろう。どうしてみな、いなくなってしまったんだろう。どうして自分はこうして走っているんだろう……。
「五十嵐さん! 待って!」
その声は、いつの間にかすぐ間近から聞こえてきていた。そして次の瞬間、ぐんと右腕を掴まれた。そして、亜美はそれ以上前へ進むことができなくなった。
「嫌! 離して!」
「五十嵐さん! 落ち着いて! いいからまず、落ち着いてから話そう……っ」
その人は、息を切らせながらそう言った。亜美はいやいやをしながら振り向いた。涙で滲んだ視界に映ったのは、背の高い少年の困惑した表情だった。それを見て、亜美はようやく自分のした行動に思い至った。
「頼むから、逃げないで欲しい……」
江藤先輩はじっと亜美の目を見つめながら、何度も肩で息をついていた。
しばらくすると、他のメンバーも亜美たちに追いついてきた。
「……ごめんなさい」
亜美はみなに向かって頭を下げ、そう謝った。直先輩からもらったティッシュで涙と鼻水をぬぐい、亜美は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
亜美の謝罪に、まず直先輩がふるふると頭を横に振った。
「ううん。あなたの気持ちもわかるから、あまり気にすることはないわ。わたしたちも、後輩であるあなたのことを思い遣る余裕がなくてごめんなさい」
直先輩がそんなことを口にしたので、亜美は彼女以上に頭を左右に振った。
「先輩が謝ることなんて、なんにもないんです。ただ、わたし、どうしようもなくなってしまって……」
「無理もないよ。誰だってこんな状況が続いたら、逃げ出したくもなるさ」
鷹野先輩がそう言った。
「……うん。わたしも逃げたいって何度も思うことあった。五十嵐さんは悪くないよ」
千絵先輩も控えめにそう口にした。
亜美は、そんな先輩たちの優しさに胸を打たれた。自分は、なんて馬鹿なことをしたのだろう。こんなに素敵な優しい先輩たちがいるのに、どうして逃げだそうなんて思ったのだろう。
「……本当に、ごめんなさい……」
引っ込んでいたはずの涙が、再び下目蓋の縁に盛りあがっていくのを、亜美は感じていた。直先輩が優しく亜美の肩を抱き寄せ、ささやくように言った。
「あなたは一人じゃない。わたしたちがついてるからね……」
その言葉は、亜美の冷え切っていた心に温かく染み込んでいった。
(一人じゃない。そう。わたしは一人じゃないんだ……)
亜美はそのとき、もうひとつの重大なことに気づいた。
孤独なのは自分だけじゃない。強く見える直先輩や他の先輩たちだって、それぞれに不安や孤独を抱えているのだ。自分ばかりが不幸だなんて、なんておこがましいことを考えていたのだろう。みな、とてもつらいのだ。だけど、それを口にして逃げ出してなんになるというのだ。なにひとつ解決しない。そこに待つのはただ暗闇ばかりだ。
亜美は恥じた。幼い自分に怒りすら覚えた。
さえ先輩や景子先輩は今はいないけれど、他の先輩たちはいるのだ。自分はそれについていけばいい。そして、その姿を見習わなくてはいけない。
亜美は、そう心に言い聞かせていた。