運命の月曜日2
そのうち教室内は生徒たちで溢れ、朝のホームルームの時間に近づいていった。そして、がらりと戸が開いて、ある人物が教室内に入ってきた。ざわざわしていた教室内が、一瞬しんと静まりかえる。
佐々嶋和輝だ。
「佐々嶋くん。おはよう」
「おう」
クラス委員の前田という男子が佐々嶋に声をかけると、佐々嶋はにこりと笑ってそれに答えた。同時に教室内の空気も緩和されていった。
ある意味、彼がこの時間にちゃんと学校に登校してきているのは珍しい。しょっちゅう遅刻をしたり、無断で休んだりするからだ。しかし、それは体が弱いからとかそんな理由からではなく、彼の気分次第でそうなっている。
佐々嶋は、教室の一番後ろの自分の席に鞄を置くと、静かに自分の席に座った。背が高い彼には、少々その椅子は窮屈そうに見える。
彼は、直とはまた違った意味での特別な存在だった。
佐々嶋は俗に言う不良だ。髪は明るい茶髪で、耳にはピアスもしている。服装も制服は着ているものの、とてもそれを正しく着用しているとは言えなかった。
その着崩した感じは彼自身のスタイルの良さもあってか、様にはなっていた。顔も整っていて、正直に言えば、初めて彼を見たときには、千絵も彼のことをかっこいいと思ったものだ。成績も優秀で、彼の父親は市会議員を務める町の有力者であり、家は裕福である。母親はPTAの会長という絵に描いたようなエリート家庭に彼は育っていた。そんな家庭の子供がどうしたわけかというべきか、なるべくしてなったというべきか、不良の道へと進んでしまったが、親の手前、彼に関しては先生たちも多くは言えないでいるようだった。
しかし、彼が特別である理由は、外見や家庭のことばかりではなく、むしろ別のことに起因していた。
現在のところ、彼はクラスメイトと友好的なように見える。けれどもそれは表面的なものであることは、千絵だけではなく、クラスメイト全体が認識していた。
一年のころのことだ。彼のいたクラスは特殊だった。クラスはすぐに学級崩壊になり、担任だった先生はそのせいでうつ病を患い、学校を辞めてしまった。その原因を作ったのは、他でもない佐々嶋であることは、学年全体が知っていた。そのために、彼が二年生のときの担任も、彼の存在に怯え、クラスは萎縮したムードに包まれていたそうだ。
そして三年生。今のクラスでも彼の存在は特別だった。クラスの他の生徒たちは、表面上は友好を装ってはいるものの、内心は彼の存在に怯え、目をつけられないようひっそりと息を殺しながら毎日を過ごしていた。
一、二年のときは彼と同じクラスになることはなかった千絵も、三年になってとうとう一緒になってしまった。直とまた同じクラスになれたことは嬉しかったが、佐々嶋とも同じクラスになってしまったことに、千絵は本当にひどく落ち込んだ。この一年を無事に過ごしていけるだろうか。四月の新学期、新しい教室に入ってまず思ったのは、そんなことだった。
幸い今のところ、佐々嶋は比較的おとなしく学校生活を過ごしているように見える。このまま卒業までもってくれればいいと、千絵としては強く思う。きっと他のみなも同様の思いを抱いているのだろう。
チャイムが鳴り、バラバラに移動していた生徒たちが自分の席へと戻っていった。それと同時に、教室の前の扉からこの三年二組のクラス担任の須藤が姿を現した。須藤はベテランの男性教諭で、数学を担当している。昔ラグビーをやっていたということもあってか、がたいのいい先生だった。
須藤が教卓の前に立つと、日直の生徒が「起立」と言った。その声に伴って、生徒たちはそれぞれ立ちあがる。しかし、それに従わない生徒が一人だけいた。
「佐々嶋。起立だ」
須藤が果敢にも、佐々嶋に向かって声をかけた。しかし佐々嶋はなにも聞こえていないかのように、そっぽを向いて椅子から立ちあがろうとはしない。須藤はそのあとなにも言おうとはしなかったので、日直は迷いながらも「礼」と口にした。「着席」の合図で、生徒たちはがたがたと椅子をひいて席に座った。
それから須藤が出席を取り、連絡事項を伝えて朝のホームルームは終わった。出席の名前を呼ばれて返事をしなかった生徒が一人いたが、須藤は一瞬待っただけで、結局なにも言うことはなかった。
佐々嶋の親しい取り巻きは、三年生になってから違うクラスとなり、現在籍を置いている三年二組では、彼の周りには友人と呼べるような存在はいなかった。彼に声をかけるものはいても、それはただのご機嫌取りであり、特に親しいわけではない。大抵みな、彼のことを腫れ物を触るように扱っていた。しかし、彼はそれを特に気にしている様子もないようだった。不気味な存在感を持ちながら、どこまでも泰然としている。その姿はなおさら孤高の存在であるように映り、彼をさらに近づきがたい存在にしていた。
佐々嶋はその容姿も相まって、一部の女子にはかなりもてている。当然のように彼女もいるらしい。そういう、男女のつきあいというものとはほど遠いところにある千絵にとっては、まるで関係のないことではあるのだが。
しばらくして、一時間目の授業が始まった。千絵の席は窓際の前から三列目の位置にある。教師の流暢な英語を聴きながら、ふと窓の外に目をやると、空に真横に伸びた筋状の雲が見えた。なんだか不思議な形の雲だなと思いながら、千絵はぼんやりとそれを見つめていた。
それから空模様は次第に怪しくなっていき、三時間目の授業が終わったころには、空に重い暗雲が立ちこめてきていた。しかしまだ雨が降るというほどではなかったため、四時間目の体育の授業は、予定通り校庭で行われることになった。
「やっぱりやるんだ。バレー」
バレーコートまでの道のりを歩いている途中、千絵が沈んだ声を出すと、隣にいた体操服姿の直が励ましてくれた。
「いいじゃない。バレーなんて遊びみたいなもの。みんなに合わせてやればいいんだよ。失敗しても、気にすることなんてないから」
直は下ろしていた長い黒髪を、後ろで束ねていた。
「でも、やっぱりわたしのせいでみんなに迷惑かけるのは嫌だな」
「もう。千絵ちゃんは気にしすぎだって」
直はそう言ったが、やはり千絵は憂鬱だった。雨が降って体育の授業が中止になるかもしれないと期待していただけに、苦手なバレーボールの授業をしなければならないのはつらかった。
バレーボールというのは団体競技だ。つまりは個人の失敗が全体に影響してしまう。千絵のような運動音痴がチームにいることで、勝率は格段にさがってしまうのだ。千絵には、バレーボールという競技にいい思い出はひとつもなかった。いつでも千絵のところにボールがくると、そこでラリーは終わってしまう。お願いだからこっちに来ないでと思うのに、何度かに一度はボールが近くに飛んできて、千絵はそれを受けなければならなくなるのだ。
そして、いつだってそれはちゃんと受けられた試しはない。多くの子たちは「どんまい」とか「気にしなくていいよ」とか言ってくれるのだが、それは上面だけの方便であり、そのがっかりした表情は本心を物語っている。
そんな表情を目にすると、千絵は気道が狭くなったようになり、呼吸が苦しくなる。恥ずかしさや申し訳なさといった気持ちでいっぱいになり、その場から一目散に逃げ出したくなってしまうのだった。文字通り、穴があったら入りたいという心境になるのである。
だから千絵は、バレーボールの授業が大嫌いだった。この世からなくなって欲しいもののひとつと言っても過言ではない。空の暗雲は千絵の心を如実に表しているようで、それを見るとさらに憂鬱さが体中に満ちていった。