懊悩の水曜日8
千絵は絵筆を持って椅子に座っていた。隣では直が同じように椅子に座り、絵筆を片手にイーゼルに立てかけたキャンバスに向き合っていた。千絵たちは一度みなのところに戻ったあと、またすぐに美術室へとやってきていたのだった。地震で散らかっていた美術室内を片付け、掃除をしてとりあえずそこを以前と同じように使えるようにした。
他にすべきことはいろいろとあるようにも思うが、直がそうしたいと言うのを反対する千絵ではない。それに、こんなときだからこそ、絵を描くことも必要なことのような気もした。
隣でキャンバスを見つめる直の目は、真剣そのものだ。千絵も精神を集中して、やりかけだった油彩の仕上げに取りかかることにした。目の前に立てかけられている自分の絵を、あらためて眺めてみる。
花瓶に入った花の絵。ピンクや白、オレンジや黄色のガーベラが画布いっぱいに描かれている。父が母の誕生日に花屋で買ってきていたものを絵の題材にしたものだ。
食卓に飾られた大きな花束は、家の中を華やかに輝かせていた。母も嬉しそうにそれを眺めていたことを思い出す。そんな幸せな時間を絵に留めようと、これを描くことにしたのだが、やはり実際の生花には遠く及ばない。自分の画力の無さに、千絵はふとため息を漏らした。
けれど、そんな千絵の絵を直は好きだと言ってくれる。伸びやかで優しい、とてもいい絵だと。千絵としては、直の絵のが格段に上手に思える。先生や周りの評価もそうだ。しかし、直自身はそう思ってはいないらしい。
千絵は、真剣にキャンバスを見つめる直の様子を眺めてみた。そして、ふと地震のときのことを思い出した。直はあのとき、放課後の部活動が禁止されてしまったことを、酷く残念がっていた。直はどうしてそれほどまでに、あのとき絵を描きたかったのだろう。なぜあんなふうに、いつもの彼女らしくない振る舞いをしていたのだろう。
千絵は意を決して、そのことを彼女に訊いてみることにした。
「あの……直ちゃん。ちょっと訊いてみてもいいかな?」
「うん。なに?」こちらに視線を寄こした彼女の瞳は、美しい鳶色をしていた。
「月曜日、あの地震が起きる前、直ちゃんすごく部活をやりたがっていたけど、それはどうしてだったのかなって思って……」
千絵のその言葉に、直の瞳に一瞬にして陰りができた。それを見て、千絵はこんな質問をしてしまったことを、すぐに後悔した。
「あ、あの言いたくなかったらいいの。ただ、ちょっとあのときの直ちゃん、いつもと様子が違うように思えて、気になったから……」
慌ててそう言い足した千絵に、直は首を横に振ってみせた。
「いいの。確かにあのときのわたし、おかしかったよね。一日部活が休みになるってだけで、あんななげやりな態度をとって」
直はそう言いながら、くすりと笑った。それから真顔になって、こう言った。
「うちの両親、離婚することが決まったの」
「……え?」
思ってもみない言葉が彼女の口から発せられ、千絵は瞠目した。
「母親は一ヶ月前からもう別居してて、その間、あの家でわたしは父親と二人きりだったの」
「……そんな。素敵な家族だと思ってたのに……」
「そう思えるでしょう。でも、それは単に外面がいいだけ。うちの両親は、体裁とか見栄とかそういうのが大事な人たちだったから。内情は酷いものよ」
直の声はとても冷めていた。千絵はその冷たい声音に驚いていた。
「わたしの両親の意見が一致していたのは、わたしの教育に関することだけだった。成績優秀で誰もが認める優等生。生徒会の会長も務める、そういう子供の親というステイタスを、あの人たちは欲していた。わたしはただ、それに応えていただけ。それが唯一、家族を繋ぎ止めておける手段だったから」
「そんな……」
「なにも言わなくていいよ。可哀想だとかそんなことを思う必要もない。結局それは、わたしが好んでやってきたことだから。それで家族の崩壊が止められるのであれば、それでよかったんだから」直は遠い目をして、話し続けた。
「だけど、両親の間にできたほつれは修正できないところまできていた。わたしがどんなに頑張ったところで、それは元に戻ることはなかった。とうとう母が出ていって、父はそれから酷く荒れてしまった。わたしはいろいろと迷ったけど、母親にはついていかず、家に残ることにした。けれど、母のいなくなってしまった家は、氷に閉ざされてしまったみたいに冷たくて、毎日帰るのがつらかった。そんな、いろんなことを忘れることができるのが、唯一絵を描いているときだったの。家では絵を描くことはできなかったし。だからあんなふうに部活にこだわったのは、それが理由。ごめんね。こんな話聞かせちゃって」
千絵はそれを聞いて、頭を何度も横に振った。ようやくあのときの直の気持ちが理解できた。直は家に帰りたくなかったのだ。少しでも多く学校に留まり、絵を描いていたかったのだ。
「わたしこそ。わたしのほうこそごめんね。そんな話、他人に言いたくなかったはずなのに。隠しておきたかったことのはずなのに」
「ううん。いいの。わたし、今千絵ちゃんに聞いてもらえて逆によかったと思ってる。ちょっと気持ちが楽になったから。だから、ありがとう。千絵ちゃん」
直はにこりと千絵に笑ってみせた。その目尻には涙が浮かんでいる。それを見て、千絵は自分も涙がこみあげてくるのをおさえられなかった。
「やだ。泣かないでよ。千絵ちゃん。ほら、ハンカチ貸してあげる」
直は自分も泣いているくせに、立ちあがって千絵にハンカチを差し出してきた。そして千絵は、それを受け取った。
直は優しい。優しくて頭もよくて、美人で。
それなのに、どうして彼女がこんな思いをしなければいけないのだろう。幸福でなければならないはずの彼女を、どうして不幸が襲うのだろう。
千絵は思った。不幸がどこかに降りかかるのを止められないのだとしたら。その絶対量が変わらないのだとしたら。もしそうだとするならば、彼女のぶんも自分が引き受けてあげられればいいのに。
デブで成績も大したことのない、引っ込み思案の千絵を、直はいつも気にかけてくれた。
一人でいた千絵に、優しく声をかけてくれた。
(わたしは、彼女のおかげでこうして生きてこられたのだ)
彼女がこんな思いを抱えることなんてない。彼女は幸せにならなくちゃいけない。その資格が彼女にはある。だから。
(どうせ不幸になるなら、わたしがなればいいのに――)