不穏な日曜日
パズルの最後の一片を、ぱちりとそこにはめこんだ。
目の前に現れたのは、そそり立つ雄大な富士の絵。青い雲海の中に浮かぶ美しい姿は、見飽きることのない完成された芸術である。
心地よい疲労感と達成感に満足した鷹野勇哉は、両腕を真上に大きく伸ばした。そして、視線を窓の外に向け、そこから見える電波塔を眺めた。
五月の連休の最終日。珍しく部活が休みだったこの日、勇哉はどこにも出かけることなく、家の自室でずっとやりかけだったジグソーパズルに専念していた。しかしそれが終わった今、彼には特別しなければならないことはなかった。
その山に電波塔ができたのは、数ヶ月前のことだ。なんだか知らないうちに完成していて、部屋の窓から見える景色の中に、その電波塔が含まれるようになっていた。たぶん、携帯電話の基地局とかそういうやつなのだろう。
その電波塔を見ていたのには、特別な意味などない。ただ単に、部屋の窓から見える景色の中で、一番目をひくのがそれだというだけのことだ。
電波塔から西側に視線をやると、山の中腹辺りに勇哉の通う中学校があった。
M市立第三中学校。通称坂の上中学校。
もちろんそう呼ばれる由縁は、坂の上にあるからである。坂の上にあるのは、中学校以外には古い住宅地と小さな神社があるくらいで、特に目立ったものはない。中学校がそこになければ、ほぼ一生その場所とは縁はないと言ってもいい。けれど、その場所に中学校があるがゆえに、三中の生徒は長い坂を三年間も上り下りしなければならないという苦行を強いられるのだ。誰がそんな場所に建てようと思ったのかはわからないが(たぶん創設者とかなのだろうが)、その人物は三中の生徒の恨みを一身に背負っているのに違いない。
「勇哉ー。昼ご飯できたわよー」
母親の呼ぶ声が階下から聞こえてきた。勇哉は窓の外の景色から視線をはずし、座っていた回転椅子から立ちあがった。そして階下へと向かった。
「あ、勇哉。今日の昼ご飯これね」
リビングダイニングにいた母親は、どこかへでかけるつもりなのか、珍しく化粧をしていた。ダイニングテーブルには一人分のラーメンがどんぶりに用意されている。
「母さんは? もう食べたの?」
「うん。さっき軽くね。それよりお母さん、ちょっとこれからミニテニスに行ってくるから、どこかでかけるんだったら戸締まりよろしくね」
母親のやっているミニテニスというのは市が主催しているクラブのことだが、母親はどちらかと言えばミニテニスよりも、終わってからの仲間とのお茶会が楽しみで通っている。日頃の運動不足のためにやっていると言っているが、そのあとにケーキセットを食べていたら意味がないということに、果たして本人は気づいているのだろうか。勇哉としては、はなはだ疑問だった。
「あれ。父さんは?」
いつもソファで寝転がっている父親の姿が見えなかったのでそう訊ねてみると、母親は頬を膨らませながら言った。
「朝も言ったでしょ。今日は接待ゴルフに行ってるのよ。まったく、また新しいゴルフクラブが欲しいとか言い出して、困るわよ」
勇哉はそんな母親の愚痴を聞き流して、ダイニングの自分の席に座った。早く食べなければ、ラーメンが伸びる。
勇哉が麺をひと口すすったときだった。
かたかたと音がした。それからすぐにその音は大きくなり、それは体感として勇哉に伝わってきた。
「地震!」
母親が慌ててダイニングテーブルの縁につかまった。勇哉は箸を置き、じっと身構えた。ラーメンのスープがゆらゆらと揺れて、今にもこぼれそうだ。揺れはすぐにおさまり、かたかたと物が揺れる音もそのうちしなくなった。
緊張で体が強張っているのが、自分でもよくわかった。脇からは変な汗が噴き出している。母親は深く息を吐いて、勇哉のほうを見た。
「最近多いわね。なんだか怖いわ」
「テレビでもよくやってるよな。そのうち大きい地震がくるって」
「やめてよ。それの前兆だって言いたいの?」
「別にそういうわけじゃないけどさ。可能性としてはあるわけだろ」
「まあ、それはそうだけどさ」
母親は不安そうな表情をしながらも、予定通り家を出て行った。とりあえず今は来るかどうかよくわからない大地震よりも、仲間とのミニテニスのが大事というわけだ。
勇哉は、先程の地震の速報がやっていないかとテレビをつけた。テレビでは、呑気にお笑い芸人たちが芸能ニュースについて語りあっている。するとテレビ画面の上部に、音とともに地震速報のテロップが出てくるのが見えた。
勇哉はそれを見ながら、とりあえず昼食の続きに戻ろうとテーブルに置いた箸を持った。ふと見ると、ラーメンのスープがどんぶりから少しこぼれてテーブルの上を汚していた。
その琥珀色のスープの水たまりを見て、勇哉は不吉なものを感じていた。
石垣優里はすぐ隣の家の門の前に立ち、『鷹野』と書かれた表札の下にあるインターホンを押した。しばらく待つと、スピーカーから声が聞こえてきた。
「優里。今出るよ」
それが聞こえてから少し経ったあと、住人が玄関の扉を開けて姿を現した。ブルーのTシャツにカーキのハーフパンツといった格好の住人は、普段よりも幾分だるそうな足取りでこちらに近づいてきた。
「漫画、返しに来た。おもしろかったよ」
「おう」
優里は漫画本を門の上から差し出すと、勇哉はそれを手に取った。
「それと、CD聴いた?」
「うん」
すでに持ってきていたらしく、勇哉はそのCDを優里に渡してきた。
「中身入れ忘れてないよね。あんたよく忘れるから」
優里はそう言いながら、CDのケースを開け、中にディスクが入っているかを確かめた。
「よし。ちゃんと入ってるみたいね」
「信用ないなー。俺」
勇哉は微妙な顔つきで頭を掻いてみせた。
「昔から勇哉は忘れ物常習犯だったからね。こっちが気をつけておかないと」
「うーん。まあ、それについては否定はしないけど」
ますます渋い顔つきになった勇哉を見て、くすりと優里は笑った。
「そういえば、さっき地震あったね」
「ああ。おかげでラーメンの汁がこぼれた」
「そんくらいで済んだんならよかったじゃん。てゆーか、最近多くない?」
「そうだな。そろそろ来るかもしれないってさっきも親と話してたとこ」
「なによ。来るかもしれないって」
優里が訝しんで勇哉の目を見つめると、意外にも彼の目は真剣そのものだった。
「だから、さっきのよりもっとすごい地震」
勇哉の言葉に、優里は一瞬息を止めた。脳内に、テレビの報道で見た過去の震災の映像がフラッシュバックのようによみがえる。
「や、やめてよね。そういうこと言うの。縁起でもない」
優里は不安な気持ちを押し隠すように、慌てて言った。
「なんだよ。怖いのか?」
「違うよ! そういうんじゃないけど、いろいろ困るでしょ。避難場所とか備蓄とか」
優里の言葉に、勇哉はふんと鼻を鳴らした。
「優里。そういうときはうちに頼れよ。うちの父さんってアウトドア好きだから、そういう備蓄も結構揃ってるんだ。避難場所も、家が心配だってんなら当然行くとこなんて決まってるだろ」
そして彼は、北の方角を指さした。
「坂の上中学校」
彼の示した方角には、今は建物に隠れて見えないが、確かに優里たちの通う中学校がある。地震が来たらそこへ逃げればいい。勇哉の言葉はシンプルだが、なんとなく説得力があった。
「そうだね。あそこに逃げればいいんだもんね」
「ああ。そんで、俺を捜せばいいだろ」
「なんであんたを捜すのよ」
「だから、さっきも言っただろ。困ったときは頼れって。ちゃんと聞いとけよ。人の話」
そのひと言で、優里はかちんとなった。
「聞いてるでしょ。ったくひと言余計なんだって。せっかく礼でも言っておこうかと思ったのに」
「なんだよ。礼言おうと思ってたんなら言えばいいじゃん」
「やだ。なんかその言い方がむかつくから言わない」
すると、勇哉は明らかに憮然となった。
「むかつくってなんだよ。人がせっかく親切で言ってやってんのに」
「そんなのこっちが頼んだわけじゃないでしょ。だいたい、なにかあったとしても勇哉なんか頼らないから」
「ああそう。勝手にしろよ」
「勝手にするわよ。それじゃ、あたしもう行くから。バイバイ」
不機嫌そうな勇哉を放って、優里はさっさと家に帰ることにした。地震で不安になったせいで慌てて漫画を返しに来たが、結局最後は喧嘩のようになり、なんだか損した気分だった。
どうせ、そんな地震なんて来るわけがないのだ。勇哉なんか頼る必要などない。
優里はそう考えて、自宅の玄関へと入っていった。