終章 練丹の法
幽谷響と信一郎は何事もなかったように帰路に着いた。
「彼女……殺したのかい?」
信一郎は蚊の鳴くような囁き声で訊いてみた。
「いいえ、殺しちゃおりやせん」
幽谷響はぶっきらぼうに答えた。
「夜な夜な男より接吻にて精を啜る妖怪『肉吸い』は始末しやしたが、人間の彼女は毛程も傷付けてはおりやせん。そういう依頼でやしたからね」
「それは一体どういう……?」
「拙僧の術がどんなものかお忘れでやすかい?」
幽谷響の使う術──それは音を操る。
あらゆる音を自在に創り出して人を惑わし、強力な言葉で催眠状態に陥れて暗示を掛ける。そして、聴覚から相手の意識に干渉して五感すら騙し、一種の仮想体験を引き起こさせることもできるという。
幽谷響の発する音を耳にした瞬間、その術中に嵌ってしまうのだ。
長い人差し指を自分のこめかみに立てて怪僧は続ける。
「それで彼女のおつむに言い聞かせたんでさ。『二度と肉吸いはできない』ってね。そん時、恐怖体験もさせやしたからね……もう悪さはできやせんよ」
「……トラウマを植え付けて、再起不能にしたわけか」
信一郎は安堵と疲れを混ぜた溜め息を漏らす。
理解しているつもりでも、やはり人死には御免だった。
そんな信一郎の顔色を伺いながら、幽谷響は事の顛末を語り出す。
「あのお嬢さんはね──さる旧家の御令嬢なんでさあ」
「……どこの誰とは明かせないんだろ?」
「勿論でございやす、守秘義務ってのがありやすからね。その御令嬢で何不自由なくお育ちになり、それはそれは美しく御成長なされやした」
しかし──悲劇は突然に降り掛かる。
「お嬢さんはちと厄介な病気を患いなすったんでさあ」
「厄介な病気? 癌とか白血病とかか?」
「詳しくは明かせやせんが、遺伝性のものでやすよ」
「遺伝性疾患か……確かに厄介だね」
遺伝子レベルで何らかの症状が現れる病だ。
世に知られていない業病も、この遺伝性疾患によるものが多い。
「こればかりは現代医療でも生半可に治せるもんじゃございやせん。なんせ相手は神様が編んだ二重螺旋を拠り所とする病でやすからね」
ある日突然、彼女にそれが発症した。
彼女の身体に現れた症状。それは体内である酵素が合成できなくなり、身体の各部に異常を来すものだったそうだ。
「特に御自慢だった肌に、酷い症状が現れたんでさぁ」
「ああ、それで……」
──美しく生きる為に。
幽谷響が向けたその言葉に、彼女は過敏に反応していた。
「お嬢さんはその美しさを象徴する玉の如き肌が、無惨に崩れていくのが耐えられなかったんでさあ」
「でも、いくら遺伝性疾患だからって、今なら何とかできるんじゃないか?」
幽谷響は頷いた。
「それは勿論ございやす。昨今の医療技術の進歩は目覚ましいものがございやすからね……ですが、所詮は間に合わせ。完治には至りやせんでした」
彼女の肌は悪化の一途を辿ったという。
美しさを磨くことを生き甲斐としていた彼女は、大いに気を病んだという。その病は徐々に精神を蝕み、やがて心の均衡を破綻させた。
やがて彼女は大いに狂乱し、鏡どころか姿の映る物をすべて打ち壊した。
その錯乱振りは家族も手を焼くほどだったそうだ。
それほど美しさに執着していたらしい。
苦悩と懊悩の果て、美しく生きたいという願望を募らせる。
それが頂点に達した時──。
「お嬢さんは道を踏み外した……道から外れる果てには外道、そのまんまにね」
「……外道か」
幽谷響は笑みを消して、押し殺した声で語る。
「たったひとつの執念、思い焦がれた妄執、それが募りに募った挙げ句、極限まで集中した心の力が行き場を無くした瞬間、その望みを叶えるためだけのものに生まれ変わっちまう……浅ましき化生、何ともやるせないでやすねぇ」
その声には憎しみはない。
ただ、世の儚さを説くように淡々と幽谷響は呟く。
普段と雰囲気が違う幽谷響に、信一郎は吐くべき息を飲み込んでいた。
「練丹の法──というものを御存知でやすかい?」
中国漢方の基本理念のひとつだ。同物同治ともいう。
体に悪い箇所があれば同じ物を食べて補填する、という考え方である。
肝臓が悪ければ肝臓を、心臓が悪ければ心臓を、頭が悪ければ脳を……と言った具合に食べる。その際、食べる動物は人間に近いほど良いとされている。
兎や鼠より牛や豚、牛や豚より熊や猿、熊や猿より……。
「……ならば、人間を食べれば最も効率が良いとでも言うのか?」
「御明察でございやす」
幽谷響は冷徹な声で答えた。
「他人にあって自分にない酵素──それを吸い奪う術」
外道と化した彼女は、その力を手に入れた。
その酵素を多く持っている者を感知する嗅覚まで彼女は持っていた。
あの御香袋はその酵素を詰めた物だったらしい。
「そこで満足してりゃあいいものを、あのお嬢さんはそれに飽きたらず、他人の生命力を根こそぎ奪うことで、自身の美貌に変える術まで手に入れちまった」
かくして──旧家の御令嬢は妖怪『肉吸い』に成り果てた。
美しく生きる術を身に付けた彼女は家を飛び出して、夜の町を渡り歩く。
美を保つための獲物を求めて彷徨っていたのだ。
「彼女は多くの男どもから自分の失った成分を吸い取りやした。吸い尽くして、それでも飽きたらず、その精根が尽きるまで吸い尽くして、てめぇの美しさに変えて……その毒牙にかかった男どもは、みぃんな死んじまいましたよ」
「やりすぎたんだね、彼女は……」
見境ってものを失っちまったんでさ、と幽谷響は付け加えた。
「自身に受けた災いを受け入れ、それを甘受して生きるには、彼女はちと気高過ぎたようで……でなきゃあ、人はあそこまで道を踏み外しやせんよ」
錫杖が鳴り響く。
「道から堕ちる果てには魔道……」
数珠が擦り鳴る。
「道から外れる果てには外道……」
鈴を鳴らす音が風に消える。
「望み求めて欲せども、いずれ道も尽き果てる……残るは虚しい足跡ばかり」
その果てには──何もありはしない。
幽谷響は吹っ切れたかのように調子外れの声を上げた。
「なぁに、世間知らずの深窓に佇む令嬢如きが、外道にせよ魔道にせよ、踏み込むにゃあ一億年早かっただけのことでございやすよ。後は今宵の悪夢に嘖まれる余生をひっそり送っていただきやしょう」
それきり幽谷響は彼女のことを口にしなくなった。
黙したまま夜を行く幽谷響、その後に信一郎も黙って着いていく。
だが、信一郎はふと呟いていた。
「外道に魔道……か」
彼女を『肉吸い』と呼んだように、信一郎たちもまた妖怪の名を持っている。
幽谷響に木魂──妖怪変化の名を冠する者。
歩くのは六道輪廻の輪から堕ち、永劫に続く絶え無き道──魔道。
信一郎は木魂の技を受け継いだ時、先代からそう教えられた。
確かに尋常な道ではない。
数多の音を繰り出して、人々を幻惑させる──幽谷響。
生命を自在に操り、自分の肉体さえ変える──木魂。
性別さえもねじ曲げた自分を思い出して、信一郎は異常さを痛感する。
私たちも妖怪──バケモノだ。
信一郎は立ち止まり、幽谷響に尋ねた。
「それなら……我々は何故、魔道を歩かなきゃいけないんだ?」
道から外れて執着のバケモノと化してしまった彼女。
道から堕ちて妖怪の名前を冠する者となり、異形の道を突き進む我々。
どちらもいずれ道の果て、そこには何もありはしない。
──ならば。
「君が言う道とやらに、何の意味がある?」
信一郎の問いに幽谷響は立ち止まり、しばし夜空を見上げた。
幽谷響は何気ない素振りで振り返る。それから邪悪極まりない微笑みで、惑わすような言の葉で、粘つくような声色で言った。
「それを知りたきゃ、道の果てまで御同行してもらうしかありやせんね」
錫杖を打ち鳴らし、数珠を鳴らし、鈴を響かせる。
「六道を踏み外した外道と違い、六道を踏み越えんとする魔道は奥が深うございやすよ。それはもう延々と続く、果て無き道と先人たちは仰っておりやす」
ああ、やっぱり──この男の声は恐い。
信一郎は眩暈を覚え、気が遠くなりそうになる。
だが、幽谷響の声はそれを許さない。
「永劫の果て……覗きたくはありやせんか?」
その笑みはあまりにも禍々しく、邪悪が滲み出しているようだ。
悩める学者を誑かした悪魔の如き微笑み。
暗い夜道を先導しつつ、何処へ誘おうというのか──。
信一郎は戸惑うように踏み出し、幽谷響の後ろを歩いていく。
「さあ──参りやしょうか」