第八話「光る世界(彼がいる教室)」
朝のチャイムが鳴るまであと十秒。
先生が到着するまであと二十秒。
あたしが教室のドアを開けるまであと……三十秒。
魔法を使い体を強化させ、足をこれでもかとばかりに動かす。目の前の景色がするすると流れていき、目にも止まらない速さで遅刻した生徒を追い抜く。あたしは風と共に去り、後ろを振り向き、遅刻魔達に手を振る。
あたしはあんたらとは違う。普通の遅刻魔とはわけが違うのだ。
魔法で強化した体は端々から悲鳴を上げる。ぎしぎしと昨日負傷した箇所が痛む。そこを魔法でまた筋肉を修復して強化で痛まないように先ほどより、一層強くコーティングを施す。同時に走る、走る。まだ走る。
そう、私は他の遅刻魔とは違う。あたしは間に合う遅刻魔なのだ。
遅刻を魔法でカバーするなんてせこいとか言われそうだが、気にしない。これこそあたしの一部。どこも否定させないものだ。
そうでもしないと遅れるんだ!
今日も全速力で廊下を駆けて、先生を教室前で追い越す。先生がドアを引く、その一瞬前に教室に入れば、見事にウィナーになれる。
危ない。
先生が入るその前になんとか教室の中へ。そのあとに、先生が入ってくる。
息を整えて、一言。
「セーフ」
目の端に写るチビな誉がけらけらと肩を笑わせていた。あたしの耳がいいからか知らないが、彼の呟く内容が鮮明に聞こえた。
「本当に、間に合った」
しっけいな。あたしは遅れたことなんかない。
……あたしが思っている中では。
ま、それはいいとして、先生の「早く座れ藤村」という一言もあり、あたしはようやく席に着いた。
先生の点呼が始まる。今日はどうだろうか、なんて思わなくても知っている。
今日は外は快晴。連日の雨は嘘のように引いて、教室には彼がいる。教室の空気もいつもより美味しく感じる。
教室の端の彼はいつものようにどうでもよさそうに教室の外を見つめている。
外にあるのはグラウンド。茶色く濃くなった水を吸った土が広がっている。しかも土には筋が幾重にもついていた。これは昨日襲ってきたプラントが残した跡だろう。
灰色がかった、薄い黒の短い彼の髪が揺れる。あたしの視線に気づいたのかこちらを振り向く。そこにあるのはいつもの無表情だった。
でも、どこか申し訳なさそうに、悲しそうな雰囲気を醸し出している。
「藤村、おい藤村いるのか、いないのかはっきりさせろ」
あたしの名前。
呼ばれてる。
「は、はーい。いますいます」
手を挙げて、先生に見せた。
たちまち教室の隅々からくすくすという笑い声がおこった。交るのは「今日は遅刻しなかったんだ」「元気だね」なんていうどうでもいいこと。あたしにとっての、日常だ。
帰ってきたんだって、ほっこりする。
と、いうか今日は遅刻してないから、なんて睨みを利かせた。
そうしてまた、彼へと視線を向ける。だけど、もうそこには先ほどの悲しそうな彼はいなかった。頬杖をついてグラウンドを一心に見つめている。昨日のことを見つめるみたいに。プラントを思いやるみたいに彼はじっと外を見ていた。
「石田 翔」
彼、翔の名前の番だ。
「はい」
ぶっきらぼうに返す、その声色はどこか居心地の悪さを感じた。
□□□
翔の態度がどこか不自然だったのは、昨日、あの施設で会った時から。
幼いころの記憶が戻っていたあたしは翔に会った。
久しぶりにあたしの前に顔を見せた彼は、あたしのことを異物を見るかのように剣呑な雰囲気を出していた。あたしはまるでここにはいらないような、苛立っているような。
でもどの言葉も彼のその時の心情に当てはまらない気がする。翔はもっと、根深い何かをあたしに向けていたんだろうね。一方で彼の透き通った瞳からは何も感じられなかった。
ただ、「そうか」とだけ告げあたしを見て、観念したように「類」のことを説明しようとした。
「こいつは……」
しどろもどろな言葉の数々はとてもじゃないけど聞けなかった。それにあたしは過去に何が起こっていたとか、翔と類との関係なんて関心がなかった。
確かにあたしは路地裏で類に出会ったとき翔に記憶のことで怒った。土壇場になっても、類や記憶のことを教えてもくれなかったから。
だけど、あの時彼があたしに教えず、じっと堪えていたのはあたしと類とを引き合わせたくなかったから。類とのあの時の記憶を厳密に説明すれば、教えたくない理由も細かくわかることなんだろうけど、その時のあたしは記憶だけが大切だった。わざわざ彼が守っていた理由まで聞きたくない。
「いいよ」
説明なんてはなからいらなかった。
もうどうでもよかった。あたしのあの時の幸せな記憶なんてみんなに説明されようとなにされようと変わらないものだったし。あたしの宝物だったし、言いようのないもので記憶は幸福色に染められていた。
それで十分だった。
「教えなくってもいいや。あたし気にしないから」
類の魔法で付けられたいくつもの切り傷からはぬめりのある血が滴っていた。足元は気づけば薄い赤が引き延ばされ、白い施設を彩っている。
重なるのはかつてここにあった類が不本意に作った血の海。
記憶に浮かんでいた死体の数々はどこにいったのだろうか。あたしが殺したわけでもない。殺した本人、類がしたくて殺したわけではない。では一体誰だったのだろうか。
ううん、そんなのは謎でいい。
そうすれば誰も傷つかないで済む。あたしも類もそうだ。中身は似た者同士で、全くの反対者同士。
謎は血の海に沈み、どこまでも深い水底であたしたちは眠ったんだ。
その日という日が来るまであたしと類は死体と同じだった。どこをとっても、どの記憶をとっても死んでいた。でもね、今あなたとあえて生きていると感じていた。
あたしの葛藤は生きていく上での手段でしかない。生きていると感じる感覚、性格、痛み、恋、心、全てが類に合って刺激される。
「ね、また会えてうれしいよ」
類に笑いかけると、類も笑った気がした。
あたしだけにしか分からない、彼の笑顔は血の雨の中悲しそうな笑顔ではなく、心底嬉しそうな幸せそうな笑顔だった。
□□□
翔が何一つ教えなくてもいいことに対して、翔は不満を感じているのだろうかはよくは分からない。あの時の翔はこっちを見るのがとにかく嫌だ、ということがひしひしと伝わってきた。
今もそうだ。
グラウンドを見つめて、何かに嫌悪感を感じている。あたしのことを見ずに、少しだけ避けている気がする。もしくわ気なんかじゃなくって本当に避けたい、のかもしれない。
あたしって、何かしたっけ。何かした、というか思い出しただけのような。そんなに嫌なのか、ちょっと分からない。
あたしの記憶は未だはっきりしていないけれど、あの時どんなことが起きたのか理解はしているつもりだ。
なんだかよく分からない施設を見つけて殺人鬼に出会って、その人があんまりにも愛おしくって。
覚えていないのは、多分幼さから物事をはっきりと記憶していなかったことが原因だと思う。それでもいろんな物事がひとつなぎになって今は記憶が復元されている。
例えば、おばあちゃんの言葉。
施設から戻って、気を失った後、あたしは駄菓子屋で寝かされた。その後、駄菓子屋のおばあちゃんが悲しそうな眼をして、あたしに問いかけてきたのだ。
「覚えていたい? 覚えていたくない?」
あたしはなんて答えたか分からないけど、それが一つのトリガーとなって、すべてを巻き込み、記憶がなくなっていった。
どうしてここまで思い出さなかったのか。もしかしたらあたしの記憶は誰かが傷つくものであって、誰かが止めていたのかもしれない。誰か、とはわかる。
教室の端で息をする彼。
やっぱり詮索すだけ、いらないお世話なのだろう。
ぼーっと進む授業中に、耳を傾けず、ずっと空を見上げている。あたしもその空を見るけれど何も見えない。彼の目には本当はたくさんのものがそこに写っていて、あたしには見えていないだけ。
ううん、見ないんだ。
ずっと何かを抱えて生きているのだろう。あたしが知らないこともいっぱいあって、それも全て彼の中にあって。そこにあたしが入り込んでいるなんて、もっと重しを追加する行為しちゃいけない気がした。
「絢ちゃん、お昼どうする?」
はっとなって、話しかけてきたむぅちゃんを見上げた。周囲を見ると、知らないうちに四限目が終わっていて、他の人は席から立ったり、お昼ご飯の準備をしていた。
そこでもう一回翔の方を見るが、彼は一向に動く気配がなかった。ずっとそのままの姿勢のままでいる。そこだけ時間が止まっているよう。
「うん」と、あたしは曖昧にむぅちゃんにうなづく。
「ごめん」むぅちゃんは焦って謝りつつ「最近部室で食べてたから、今日はどうするのかなあって」
「うん」
「えっと……絢ちゃん?」
あたしは、ふとむぅちゃんのことを見た。そこにある獣の香りを鼻に吸い込む。これがむぅちゃんの匂いだ。
そして一緒くたになって、遠くの翔の香りも匂ってくる。すっぱくて、甘くて、そう思えば辛子のようにぴりっとした匂いが刺激してくる。もう、ごちゃごちゃしていて何が何だか分からない。
類の匂いはもっと甘い。あの人の匂いは、忘れられない。苺とオレンジの間、甘いが甘酸っぱいと言っていいかもしれない。
「おーい、絢ちゃん?」
ふるふるとあたしの前にむぅちゃんが手を振っていた。
「藤村さん」むぅちゃんに引き続き、すぅちゃんが加勢しに来る。「ついに……」
「ついに?」とすぅちゃんの引きにむぅちゃんが反応した。
「何でもないです」
ちょっと待って。
「気になるでしょーが」あたしは立ち上がった。
すぅちゃんを見下げると、あたしの反応に一コマ驚いた表情を見せたが、すぐに落ち着いたようにほっと無表情に笑みを垂らした。
「やはり聞いていたんですね」
「ひどいよ、絢ちゃん。無視するなんて」
むぅちゃんが口を引き締めて、うるうると目を潤ませた。 その冗談、確かにユウや誉には利くけど、あたしにはあんまり効果がない。あたしは割り切っているし、それに誉より単純じゃない。
単純に謝るほどあたしも馬鹿じゃ……
「ごめん」
あれ?
心が割り切っていても口は割り切っていなかった。すぐに謝罪をするなんて誉みたいだ。て、なんであいつのことが出てくるんだろうか。いやいやもうそれはお察しだ。むぅちゃんがそいつの幼馴染だからだ。
「分かったならいいよぉ」
むぅちゃんの教室内での緊張感を常にだしてはいるが、そのさなかでこうして冗談を言うことがある。その時に一瞬、気が抜けたのか舌をペロッと出すしぐさをする。そのしぐさがとっても可愛らしい。なんとなくずるさを感じる。
むぅちゃんの場合の冗談は、人を思いやった場合が多かった。あたしにもそうだ。
多分こういうところだ。こういうところが、ユウがむぅちゃんのことを好きになったんじゃないかって、あたしは疑っている。
ちらりと視線を誉やユウの方を見る。すぐに視線があったのは誉。ユウはあたしじゃなくって隣のむぅちゃんを見ている。
ちっと心の中で舌打ち。朝からあいつの視線とあうなんて気色が悪い。
「それより」すぅちゃんが切り出した。「お弁当、どうします?」
すぅちゃんの瞳は深い夜の青さを見せている。その透き通った色を見ると、あたしの心、全てお見通しなんじゃないかって、思ってしまう。そんな黒木さんみたいな能力はないのに、どことなく居心地悪く感じてしまう。
「そうそう、それだよ翠ちゃん」とむぅちゃんがうんとうなづいた。
「今日は一緒に食べましょう……彼も来たことですし」
やっぱりお見通しだ。
「知ってたんだ」
「ええ」
そうだったっけ。
思い返してみれば、喧嘩別れして学校来なくなった翔のことが気がかりで、翔が部室に来ないことばかり気になっていた気がする。
いや、正確には翔ではなくその先にある真実、類のことだ。気になって仕方なくって、部室に彼がいないかここ数週間隙あらば部室に籠っていた。
「それに、今ずーっと見てたよ」
むぅちゃんが小声であたしに伝えてきた。内緒話にすることでもないのに。むぅちゃんはその人の名前じゃなくって、目線で伝えてきた。つまりは窓の外を見ている翔を見る。
「私の声聞こえてないのかと思った」
「ごめんって。ちゃんと聞こえてた」
「そう、ならよかった」
どこまでもむぅちゃんの目の色は複雑だ。あたしのことを伺って、自分の恐怖を打ち消して、どこからか湧き出た黒い感情を制圧している。そして優しい色で塗りつぶされている。
そんなむぅちゃんの優しさを見ていると、これまで見えてこなかったことが見えてくる。
そういえば、最近は梅雨でじめじめしていた天気だったのに、今日はからりと晴れていて、青い絵の具を水で薄めた青空が広がっていた。雨の切れ間のなんとやらだ。虹まで出てきそうな、そういう晴れた空。
「ねぇ、一緒に屋上で食べない?」
私の提案に、彼女たちは快くうなづいてくれた。手にはそれぞれの親が作った弁当を既に持っていて準備万端だった。
なんだか悪いことしたな。
ガシャッと教室の扉が小さく音を立てて引かれた。ふと気づいて、翔の席を見ると、今発ったらしく知らないうちに教室から姿を消していた。
いろいろ聞きたかったのに、またタイミングを逃してしまった。あー、なんだかやきもきする。




